女関係はザラであった。万人には最低の生活が配給されていたが、軍人や会社上司の特権階級は、今日との物資の比例に於ては同じように最高級の酒池肉林であったことに変りはなく、監督官庁の役人は金次第で、あとは表面の帳面ヅラを合せておけば不合格品OKだ。
そのくせ新聞は一億一心、愛国の至情全土に溢れているようなことしか書かないけれども、書けないからで、もしも今日同様なんでも書ける時代なら、道義タイハイ、人心の腐敗堕落ということは、先ず戦争中に於て最大限に書かれる必要があったのである。
新聞が書きたてることができず、誰も批判を発表することを許されなかった時代には、報道をウノミにして事の実相を気付かず、批判自由で新聞が書きたてる時代に至って報道通りのことを発見して悲憤コーガイ憂国の嘆息をもらすという道学者は、目がフシ孔で、自分の目では何を見ることもできない人だ。
口に一死報国、職域報国を号令しつつ腐敗堕落無能の極をつくしていた軍部、官僚、会社の上ッ方にくらべれば、敗戦焼跡の今日、ごく限られたパンパン男娼の存在の如きは物の数ではあるまい。前者は有りうべからざるものであるが、後者は当然あるべきことで、しかもその数は決して多すぎるものではなく、今日の敗戦日本は意外に秩序が保たれていると見なければならない。けだし日本の一般庶民が性本来温良で、穏和を愛する性向の然らしむるところであるらしい。監督官庁の官僚や税務官吏が特に鬼畜の性向をもつわけでなく、一般庶民と同じ日本人なのであろうが、どうも日本人というものは元々一般庶民たることに適していて、特権を持たせると鬼畜低脳となる。今日に於ては、官僚の特権濫用の鬼畜性と一般庶民の温良性との差は甚しいものがある。批判禁止の軍人時代とちがって、批判自由の時代に於ても特権階級の専横は軍人時代と同じ程度であるから、いかに性温良とは云え、泣く子と地頭に勝てないという日本気質の哀れさは、当代の奇習のうちでも万世一系千年の伝統をもち特に珍らかなもののように思われる。アキラメや自殺は美徳ではない。税金で自殺するとは筋違いで、首をチョン切られても動きまわってみせるという眉間尺《みけんじゃく》の如くに、口角泡をふいて池田蔵相にねじこみ喉笛にかみついても正義を主張すべきところであろう。
どうもマクラが長くなり、脱線して、何が何やら分らなくなってしまった。こんなことを云うつもりではなかったのだが、ヘタな噺し家は、これだからこまる。高座で喋りながら逆上するようでは芸術家の資格がないと心得ていても、税務署に話がふれると、目がくらむのである。
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終戦後、東京いたるところの駅前にマーケットができて、カストリをのませる。よってヘベレケに酔っ払う人種があつまり、パンパンとアロハのアンチャンがたむろする。
マーケットというところは元々売買取引するところだが、終戦後は、ここで女を買うことも間に合うし、顔を貸りられて身ぐるみまきあげる取引もあり、一つとして足りない取引がなく、みんなここで間に合うこととなった。
私は同じ地点で二度スリにやられたが、身ぐるみはがれたことはない。一度、当時はまだ銀座が殆ど復興していなかったが、私が焼跡へでて小便していると(マーケットに便所はないです)左右からサッと二人の怪漢が近より無言のままサッと胸のポケットに手をさしいれて引きぬいて、サッと消えた。私が用を終って振りむいた時には、人の姿はどこにもなかった。
手際の良さ、水ぎわ立った奴らだと感服したのだが、彼らは失敗したのである。私の小便の終らぬうちにと、彼らは急いでいるから、サッとポケットの物をひきぬくと改めもせず掻き消えたが、怪漢の一人はチリ紙をぬきとり、一人は鎌倉文庫手帖というものをぬきとったにすぎないのである。こういう教訓を書き加えるのは、芸術家として切ないのだが、手際がよすぎるということもいけないのである。
私がマーケットに於て被害をうけたのは、以上だけで、常連としては極めて微々たる被害だが、一人で飲むということが殆どなかったせいかも知れない。
どこのマーケットでもアンチャンあるところ身の安全は期しがたいが、特に新宿のマーケットはカストリ組の危険地帯随一と目されている。
しかし、新宿は戦争前にも、東京随一のアンチャン地帯であり、酔ッ払いの危険地帯であった。
私が中学生のころは浅草がひどかったが、震災後、親分連が自粛して、浅草の浄化運動というようなものを自発的に、又、警察と協力的にやりだしたので、私が東京の盛り場をノンダクレてまわる頃には、浅草は安全な飲み場の一つであった。
いつまでもアンチャン連が生息横行していた盛り場は、新宿が筆頭で、私もずいぶん、やられたものだ。当時、ここでひとりで深夜まで飲むことが多かったからだ。しかし、深夜には、たいがいバーでのんでいるから、バーのマダムや姐さん方は正義派で、お客をまもってくれるという良俗があり、新宿で本当にタカラれたこともなく、血の雨を降らしたこともない。新宿のヨタ公は、戦争がタケナワとなり、飲み屋がなくなるまで、残っていた。
しかし、盛り場ではないから一般には知られていないが、戦争前に私がズッと住んでいた蒲田はもっとひどかった。
中央線沿線は書生群のアパート地帯だが、当時の蒲田は安サラリーマンと銀座勤めの女給のアパート地帯で、アパートの女給は男をつれこみ、酒場や料理屋の女はまったくパンパンで、公然と許されてはいなかったが、今日の裏街といえどもこれ以上ではないのである。もっとも、銀座もひどかった。
当時はコップ酒屋がどこにもあったが、蒲田は安サラリーマンと労働者の街だから、夕方になるとコップ酒屋がドッとあふれる。大は四五十人つまるところから、小は四五人で満員の十銭スタンドに至るまで、お客は主として四十歳以上の、その日稼ぎの勤労者である。
蒲田のヨタモノはこの連中をタカるのだから悪質であった。
どんな風にタカルかというと、ヨボヨボの労務者が一人、又は二三人でのんでる横へ、ドッカと坐ってのみだす。やがて話しかけて(話しかけないことも多いが)
「このオジサンに一杯」
といって、一杯酒をとりよせて、まア飲みねえ、うけてくんな、と押しつける。
うけなければ、なぜうけないとインネンをつけるし、うければ、なぜ返さぬ、とインネンをつける。返せば、又一杯押しつけて、返させる。途中に帰ろうとすれば、なぜ帰るとインネンをつける。見込んだら、放さない。
洋服のサラリーマンよりも労務者にタカルことが多かったが、一見乞食のような服装の老いたる労務者や馬力人夫などが、最もタカラれ、結局その方が確実にイクラカになる理由があってのことだろう。
こんなタカリは毎晩一パイ飲み屋の何軒かで見られたものだが、店の主人も店員も客のためになんの処置もしてやらない。こういう時には男手のないバーなどの方がはるかにシッカリしているもので、マダムとか、ちょッと世なれた女給たちはヨタモノを退散させてくれるものだ。歴とした店構えの酒屋などの主人に限って、後難を怖れて、客のために何の処置もしてくれない。又、四五十人もいるお客は顔をそむけて素知らぬフリでのんでいる。うっかりそッちを向いてもインネンをつけられる怖れがあるからで、事実ヨタモノはヨボヨボのジイサンなどをひどくイジメて、正直者がとりなしてくるのを待ち構えてもいるのである。
私もここでは五人相手に大乱闘やったことがある。酔っていたから、ずいぶんブン殴られた。なんべんノビたか分らないが、ノビた数だけ突如として起き上ってとびかかって、いつまでも終りがないので、五人の親分というのが留めにきてくれた。翌日鬼瓦のように青黒くはれた顔をしているところへ、中原中也が遊びにきて、手を打って喜び、二三時間ぐらい(つまり彼の酒場へ通う時刻がくるまで)アレコレと腫れた顔の批評をして、帰っていったが、私は怒ることも笑うことも喋ることもできなかった。顔の筋をうごかすことができなかったのである。しかし一つの腫れた無言の顔を相手に、三時間もアレコレと意地の悪い批評の言葉がつづくところはアッパレ詩人というべきであろう。この時以来、私の鼻と口の間の筋が一本吊って、時々グアイがわるい。
当時の蒲田のヨタモノは二種類あって、一つは並のヨタモノであるが、一つは大船へ引越した松竹撮影所が蒲田へ置きすてていった大部屋の残党だ。
私のアパートの隣室が彼らの巣で、主として自分らの情婦をつかってツツモタセの相談をやってる。それが筒抜けにきこえる。いよいよ最後の仕上げに総勢出動のあわただしい音も、ガイセンの音も、祝盃の音も、みんなきこえて、最後に殊勲の女を情夫が愛撫する音まできこえ、首尾一貫、居ながらにして、現代劇を味っているようであった。そのツツモタセのたかってくる金が三円か五円ぐらいで、いちど十円の収穫があったとき、女が、十円札だわねえ、はじめてだわ、とシミジミ云っているのがきこえ、変に悲しい思いにさせられたものである。パンパン時代の今日の方が、むしろ女の肉体の価が高い。当時は蔭で身を売る女の数が今よりも多く、ハッキリ旗印しをあげることができなかったから、タダであったり、チップであったり、要するに値段がなかった。今のパンパンは収入の点では昔日の比ではないのである。
新宿は蒲田ほど露骨ではなかったが、盛り場としては、戦前から最も柄の悪いところであった。
しかし戦後の新宿はたしかにひどい。今は伊東に住んでいるから新宿へ行くこともないが、以前はよく行った。古い友人のやつてる「チトセ」という店は屋外劇場の方で、ここはアンチャン連の居ない地域であるが、今は取り払われでなくなった和田組のマコの店、ここへ行くと、すさまじかった。
しかし酔っ払って帰る時はいつもマコが駅まで送ってくれたから無事であったが、さもないと、どうなるか分らない。マコはナジミの客はみんな駅まで送ってやっていたから、私の友人はここであんまり被害をうけなかったようだが、しかし編輯者などで、ここのマーケットで裸にされたというようなのは相当数いるのである。
そういうのは前後不覚に酔って、いつやられたか当人も知らない場合が多く、私がこのマーケットへ飲みに行っていたころも、入口出口の要所の店には、帰り客の酔態を監視している何人づれかのアンチャンが必ずタムロしていたものである。
このマーケットは取り払われたが、その四囲のマーケットは残っており、アンチャン連の存在は今もって変りがない。
人間が何千年の時間をかけて社会秩序というものを組みたてても、ひとたび我々の直面した敗戦焼跡の如きものがあって、無政府状態が訪れた際には、歴史は逆転して同じフリダシへ戻ってしもう。曰く、暗黒時代である。
盛り場を縄張りとする愚連隊が、無政府状態の敗戦直後に先ず縄張りの復興にのりだしたのは自然であるが、これを正規の復興に利用し、政党費までこの連中の新円に依存しようという量見を起した政党の無定見、一時しのぎのさもしい根性、未来の設計に対する確たる見透しや理想の欠如というものは、ひどすぎた。
歴史に徴しても、無能な政府というものは、主として一時しのぎのさもしい量見で失敗しているものだ。
自分の政敵を倒すために他人の武力をかりて、かえって武力に天下をさらわれてしまう。平安貴族の没落、平家の天下も、源氏の天下も、南朝の悲劇も、無為無能の政府が一時しのぎに人のフンドシを当《あて》にしたせいだ。
敗戦後のいくつかの政府は、歴史上最も無能な政府の標本に属するものであったが、占領軍の指導で大過なきを得たのであった。
歴史をくりかえすのはバカのやることだ。歴史は過ちをくりかえさぬために学ぶ必要があるのである。
数年前からボス撃滅を叫びながら、今もって各地はボスの勢力下にあり、却々《なかなか》もって撃滅どころの段ではない。代議士、府県会議員、市町村議員にも多数のボスが登場しているし、ボスでない議員もボス化し、困ったことには役人官僚もボス化しているから、盛り場のチ
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