安吾巷談
東京ジャングル探検
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呂律《ろれつ》が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七八|米《メートル》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チョロ/\と
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わが経来りし人生を回想するという年でもないが、子供のころは類例稀れな暴れん坊で、親を泣かせ、先生を泣かせ、郷里の中学を追いだされて上京しても、入れてくれる学校を探すのに苦労した。私が苦労したわけではないが、親馬鹿というもので、私はだいたい学校というものにメッタに顔をださなかった。たまに顔をだすと、たちまち、先生と追いつ追われつの活躍となり、しかし結局先生を組み伏せるのは私の方であるし、当人の身にもツライことで、たのしいものではない。
追いだされるのは仕方がない。当人の身にはホッとして、これで悪縁がきれた、まったくである。不良少年というものは、行きがかりのものだ。当人が誰よりツライのである。けれども、親馬鹿だ。改めて歴とした中学へ入れようとしても、受けつけてくれるものじゃない。結局ヨタモノだけの集る中学へ入学する。そういう中学があったのである。
悪縁が切れたから、改心しようと思って、改心したツモリであったが、どこにも行きがかりというものがある。学問はできないけれども、スポーツは万能選手で、たのまれてチョロ/\と競技会へ出場すると、関東大会でも優勝するし、全国大会でも優勝する。九州の落武者の大ヨタモノの相撲の選手が糞馬力で投げてみたって、十二ポンドの砲丸が七八|米《メートル》ぐらいしか飛ばないものだ。私がヒョイと投げると十一米ふッとぶのである。柔道すると、大ヨタモノがコロ/\私にひッくりかえされる。いくら学問が出来ないたって、こういう連中の中では頭角を現すから、私は改心したツモリであったが、いつのまにか、大ヨタモノの中央に坐っていた。
九州の落武者の多くは、壮士的ではあるが、ヨタモノとは違う。彼らは概ね自活していた。新聞配達とか、露店商。これは今でも学生のアルバイトだが、当時はそうザラではない。夜中にチャルメラ吹く支那ソバ屋もいたし、人力車夫、これがモウケがよかったようだ。雨が降りだすと、ソレッと親方から車をかりて、駅や劇場へ駈けつける。雨天だけの出動で一ヵ月生活できるから、ワリがよかった。
この連中は年齢も二十をすぎ、いっぱし大人の生活をし、女郎買いに行ったりして、一般の中学生の目には異様であるが、ヨタモノとは違う。
硬派、軟派の本ヨタは、年齢的には、むしろ普通の中学生に多かった。
落語で云うと、コレ定吉、ヘーイ、というような筒袖の小僧ッ子が、朝ッパラから五六人あつまって、一升ビンで買ってきた電気ブランをのんでいる。三人ぶんぐらいの洋服や着物を曲げて、電気ブランを買ってきたのである。
小僧ッ子が酔っ払うと、目がすわる。呂律《ろれつ》が廻らなくなることは同じことだが、理性は案外シッカリしていて、ちょッとした大言壮語するぐらいで、大人のように取り乱した酔い方はしないものだ。酔うと発情するような傾向もないし、シンから疲れているようなところもないせいかも知れない。
じゃ一仕事してこようや、と云って、酔いの少いのが、三人ぐらい、曲げ残りの制服や筒袖をきて、でかけて行くのである。腰にまいたバンドが武器だ。筒袖はメリケン・サックというものを忍ばせている。
よその学校のヨタがかったのや、軟派をおどかして金をまきあげることもあるし、セッパつまると、大人にインネンをつけることもある。小僧ッ子とあなどると案外で、ヒョウのような目で突然おそいかかって、メリケンをくらわせたり、バンドをふりまわしたり、警察へアゲられても、仲間のことは一言も喋らず、三四日してニヤニヤと出てくるのがいる。十六七の小さい中学生なのである。
彼らは賭場へのりこむこともある。貸元の賭場ではなくて、車夫だとか、自由労働者とか、本職でもなしズブの素人でもなしという手合の半常習的なレッキとした大人の世界へのりこんで行くのである。
子供とあなどってインチキなことをやると、少年の行動というものはジンソクなもので、居直ったと思うと疾風ジンライ的にバンドを構え、メリケン・サックを閃めかして大人にせまっている。
私は一度だけ、彼らがそんなことをする現場に居合したことがあるが、彼らは私に遠く離れて彼らの仲間と思われぬようにしているようにと注意を与え、細心なイタワリを払ってくれて、仲間になれとか、見張りしてくれとか、そんなことは決して云わなかった。
九州のオッサン組と本ヨタ組は完全に没交渉であったが、私はどちらからも大事にされて、甚だケッコウな身分であった。
九州のオッサン組は年をくっていたが、無邪気でもあり、同時に、低脳でもあったが、ヨタ組は若くて、しかし老成しており、学業は出来ないが、判断は早く、行動はジンソクだった。両者に共通していたことは、スポーツのような子供っぽいことには深く興味を持ち得ないことだけであった。両者がケンカすると、若年のヨタ公が勝ったであろう。なぜなら、しつこさ、あくどさがあった。軟派の現場をとらえ、相手の女学生を輪姦するというようなことは確かにやっていたし、その日常も現実的で、花札のインチキなどを、身をつめて練習していたものである。
後年、私が三十のころ、流浪のあげく、京都の伏見稲荷の袋小路のドンヅマリの食堂に一年ばかり下宿していたことがあった。
はじめ私が泊ったころはタダの食堂、弁当の仕出し屋にすぎなかったが、六十ぐらいのここのオヤジが碁気ちがいだ。毎晩私に挑戦する。それが言語道断のヘタクソなのである。石の生死の原則だけ辛うじて知っているだけで、九ツおかせてコミを百だして、勝つ。つまり、全部の石が死んでしまうのである。それでもオヤジは碁が面白くて仕方がないというのだから、因果なのは彼にしつこく挑戦される人間である。
バカバカしくて相手になっていられないから、そんなに碁が打ちたいなら、幸い食堂の二階広間があいてるから、碁会所をやりなさい。碁会所は達人だけが来るわけではなく初心者もくるから、初心者相手にくんずほぐれつやったらお前さんも溜飲が下るだろう、とすすめて碁会所をひらかせた。
オヤジは大変な乗気で、碁道具一式そろえ、初心者きたれ、と待ち構えていたが、あいにくなことにオヤジと組んずほぐれつの好敵手はいつまでたっても現れず、誰も彼を相手にしてくれないので、オヤジのラクタン、私もしかし今もってフシギであるが、これぐらいヘタクソで、これぐらい好きだというのは、よくよく因果なことである。
そのうちに、ここがバクチ宿のようなものになった。
稲荷界隈を縄張りにしている香具師《やし》の親分が見廻りに来てここで食事をするうち、ここの内儀に目をつけた。四十ぐらいの、ちょッと渋皮はむけているが、外見だけ鉄火めいてポンポン言いたがる頭の夥しく悪い女だ。善良な亭主を尻にしいて、棺桶に片足つッこんでからに早う死んだらえゝがな、というようなことをワザと人前で言いたてたがる女だ。
香具師の親分ときいて、このバカな内儀が何年間つけたこともないオシロイなどぬりたくり、チヤホヤしたから、それからは親分が見廻りにくるたび御休憩の家となり、親分御食事中はほかのお客はお断り。門前払いだ。
やがて親分が酔っ払う。親分と内儀だけ奥に残して、乾分《こぶん》たちは退散し、食堂のオヤジも二階の碁席へ追ッ払われる。オヤジは腰がまがって、二階へ上ってくる時は、一段ごとに手も突きながら、ウウ、ウウ、ウウ、と這ってくる。関さんという碁席の番人で、これもヘタクソなのを相手に、血迷った馬のような青筋をたてて、ただもう猛烈な速力で碁を打ちはじめるのである。ハハア、香具師の親分が来てるな。追っ払われたな、ということが、常連にはすぐ分るのである。
碁席を当日休業にして、この広間で、跡目披露をやったこともあるし、モメゴトの手打式などもあった。袋小路のドン底の羽目板が外れて傾いて、食堂の土間には溝のあふれた匂いがいつもプンプンしているようなところで、こんなところで跡目披露や手打式をやるようでは、よッぽど格の下の親分であったに相違ない。落伍者や敗残者だけが下宿するにふさわしい家で、便衣隊の隠れ家には適しているが、まア、便衣隊の小隊長格の親分だったのだろう。
こうなってからは、碁席の方へも、乾分のインチキ薬売りや、そのサクラや、八卦見《はっけみ》や療養師や、インチキ・アンマや、目附の悪いのがくるようになり、彼らが昼間くる時はカリコミがあった時で、一時しのぎに逃げこんでいるのだから、ソワソワと落付かず、碁はウワの空で、階下でゴトリと音がするたび、腰をうかして顔色を変える。
私はこの連中から、花札や丁半のインチキについて、実地に諸般のテクニックを演じて見せてもらった。こればかりは実演して見せてもらわないと分らない。指先の魔術である。寄席でやる奇術師のカードの魔術、すくなくとも、あれと同等以上の指先の錬磨がないと、インチキ賭博はやれない。札が指と手の一部のように、指の股に、掌に、手の裏に、袖に、前後左右、ヒラヒラ、クルクル、自由自在、目にもとまらぬものである。特に対面《トイメン》には全然わからない。当人の向って左側の者にだけ、シサイに見ていると魔術が分るから、ここには仲間をおかないとグアイがわるいようだ。
私は麻雀については知らないが、見ていると、のぼせあがって、ひどく忙しく、やっている。まるで忙しくやらないと麻雀打ちのコケンにかかわるかのように、ただもう四人の手がめまぐるしく往復しているのである。おまけに捨てたパイの上を水平に這うようにして各人の手が忙しく往復しているのだから、余分のパイを二ツ三ツ隠しておくのはワケがない。ちょッとの練習でいくらでもインチキがやれそうだ。だから素人が知らない人と賭け麻雀などはするものではない。
私の一生は不逞無頼の一生で、不良少年、不良青年、不良中年、まことに、どうも、当人がヒイキ目に見てもロクでもない一生であった。それでも性来、徒党をくむことを甚しく厭《い》み嫌ったために、博徒ギャングの群にも共産党にも身を投ずることがなかった。
云い換えれば、私の一生は孤独の一生であり、常に傍観者、又、弥次馬の一生であった。
しかし、私が傍観してきた裏側の人生を通観して、敗戦後、道義タイハイせり、などとパンパン、男娼、アロハアンチャン不良少年の類いをさして慨嘆される向きは、世間知らずの寝言にすぎないということを強調しておきたい。いつの世にも、あったのである。秩序ある社会の裏側に常に存在してきたのだが、敗戦後は、表側へ露出してきただけなのである。
しかし、日本の主要都市があらかた焼け野原となって、復興の資材もない敗戦後の今日、裏側と表側が一しょくたに同居して、裏街道の表情が表側の人生に接触するのは仕方がない。まだしも露出は地域的であり、そういうものに触れたくないと思う人が触れずに住みうる程度に秩序が保たれていることは、敗戦国としては異例の方だと云い得るだろう。
裏側と表側の接触混合という点では、パンパン泥棒の類いよりも、役人連の公然たる収賄、役得による酒池肉林の方が、はるかに異常、亡国的なものであると云い得る。
清朝末期に「官場現形記」という諷刺小説が現れた。下は門番小使から上は大臣大将に至るまで、官吏の収賄、酒池肉林、仕事は表面のツジツマを合せるだけで手の抜き放題、金次第という腐敗堕落ぶりを描破したもので、この小説が現れて清朝は滅亡を早めたと云われている。
しかし今日の我々が「官場現形記」を読むと、官界の腐敗堕落の諸相は清朝のものではなくて、そッくり日本の現実だ。日本官界の現実は亡国の相であり、又、戦争中の軍部、官界、軍需会社、国策会社も、まったく清朝末期の亡国の相と異なるところがない。
街頭にパンパンはいなくとも、課長夫人の疎開あとには戦時夫人がいたし、戦時的男
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