のように、ただもう四人の手がめまぐるしく往復しているのである。おまけに捨てたパイの上を水平に這うようにして各人の手が忙しく往復しているのだから、余分のパイを二ツ三ツ隠しておくのはワケがない。ちょッとの練習でいくらでもインチキがやれそうだ。だから素人が知らない人と賭け麻雀などはするものではない。
私の一生は不逞無頼の一生で、不良少年、不良青年、不良中年、まことに、どうも、当人がヒイキ目に見てもロクでもない一生であった。それでも性来、徒党をくむことを甚しく厭《い》み嫌ったために、博徒ギャングの群にも共産党にも身を投ずることがなかった。
云い換えれば、私の一生は孤独の一生であり、常に傍観者、又、弥次馬の一生であった。
しかし、私が傍観してきた裏側の人生を通観して、敗戦後、道義タイハイせり、などとパンパン、男娼、アロハアンチャン不良少年の類いをさして慨嘆される向きは、世間知らずの寝言にすぎないということを強調しておきたい。いつの世にも、あったのである。秩序ある社会の裏側に常に存在してきたのだが、敗戦後は、表側へ露出してきただけなのである。
しかし、日本の主要都市があらかた焼け野原となって、復興の資材もない敗戦後の今日、裏側と表側が一しょくたに同居して、裏街道の表情が表側の人生に接触するのは仕方がない。まだしも露出は地域的であり、そういうものに触れたくないと思う人が触れずに住みうる程度に秩序が保たれていることは、敗戦国としては異例の方だと云い得るだろう。
裏側と表側の接触混合という点では、パンパン泥棒の類いよりも、役人連の公然たる収賄、役得による酒池肉林の方が、はるかに異常、亡国的なものであると云い得る。
清朝末期に「官場現形記」という諷刺小説が現れた。下は門番小使から上は大臣大将に至るまで、官吏の収賄、酒池肉林、仕事は表面のツジツマを合せるだけで手の抜き放題、金次第という腐敗堕落ぶりを描破したもので、この小説が現れて清朝は滅亡を早めたと云われている。
しかし今日の我々が「官場現形記」を読むと、官界の腐敗堕落の諸相は清朝のものではなくて、そッくり日本の現実だ。日本官界の現実は亡国の相であり、又、戦争中の軍部、官界、軍需会社、国策会社も、まったく清朝末期の亡国の相と異なるところがない。
街頭にパンパンはいなくとも、課長夫人の疎開あとには戦時夫人がいたし、戦時的男
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