村は水屍体を鄭重に葬ることには歴史があって、頼朝が蛭《ひる》ヶ小島に流されていたとき伊東|祐親《すけちか》の娘八重子と通じて千鶴丸をもうけたが、祐親は平氏に親しんでいたから、幼児を松川の淵へ棄てさせてしまった。稚児の屍体は海へ流れて、辿りついたのが富戸の断崖の海岸だ。これを甚衛門という者が手厚く葬ったところ、後日将軍となった頼朝の恩賞を蒙り、その子孫は生川の姓を名乗って現存しているという。
 千鶴丸を殺させた祐親は後に挙兵の頼朝と戦って敗死したが、彼は河津三郎の父であり、曾我兄弟には祖父に当る。曾我の仇討というものは、単なるチャンバラではなくて、そもそもの原因は祐親が兄の所領を奪ったのが起りである。つまり亡兄の遺言によって亡兄の一子工藤|祐経《すけつね》の後見となった伊東祐親は、祐経が成人して後も所領を横領して返さなかった。祐経は祐親の子の河津三郎を殺させ、源氏にたよって父の領地をとりかえしたから、今度は河津三郎の子の五郎十郎が祐経を殺したというわけだ。祖父から孫の三代にわたる遺産相続のゴタゴタで、元はと云えば伊東祐親の慾心から起っている。講談では祐親は大豪傑だが、曾我物語の原本では、悪党だと云っている。もっとも、伊豆の平氏を代表して頼朝と戦った武者ぶりは見事で、豪傑にはちがいない。
 伊東は祐親の城下であるが、そのせいではなかろうけれども、水屍体は全然虐待される。富戸と伊東は小さな岬を一つ距てただけで、水屍体に対する気分がガラリと一変しているのである。伊東の漁師には、水屍体と大漁を結びつける迷信が全く存在していないのである。
 しかし、同じ伊豆の温泉都市でも、熱海にくらべると、伊東は別天地だ。自殺にくる人も少いが、犯罪も少い。兇悪犯罪、強盗殺人というようなものは、私がここへ来てからの七ヶ月、まだ一度もない。
 その代り、パンパンのタックルは熱海の比ではない。明るい大通りへ進出しているのである。さらば閑静の道をと音無川の清流に沿うて歩くと、暗闇にうごめき、又はヌッとでてくるアベックに心胆を寒からしめられる。頼朝以来の密会地だから是非もない。頼朝が密会したのもこの川沿いの森で、ために森も川も音を沈めて彼らの囁きをいたわったという。それが音無川の名の元だという。伊東のアベックは今も同じところにうごめいているのである。
 二週間ほど前の深夜二時だが、私の借家の湯殿の窓が一大音響と共に内側へブッ倒れた。私は連夜徹夜しているから番犬のようなものだ。音響と同時に野球のバットと懐中電燈を握りしめて、とびだした。伊東で強盗なぞとはついぞ聞いたことがないのに、わが家を選んで現れるとは。しかし、心当りがないでもない。税務署が法外な税金をフッかけ、新聞がそれを書き立てたのが二三日前のことだからだ。知らない人は大金持だと思う。
 外は皎々《こうこう》たる満月。懐中電燈がなんにもならない。こんな明るい晩の泥棒というのも奇妙だが、イロハ加留多にも月夜の泥棒があるぐらいだから、伊豆も伊東まで南下すると一世紀のヒラキがあって、泥棒もトンマだろうと心得なければならない。
 とにかくサンタンたる現場だ。鍵をかけた筈の二枚のガラス戸が折り重って倒れている。内側の戸が外側に折り重っているのである。
 戸外には十五|米《メートル》ぐらいの突風が吹きつけているが、キティ颱風《たいふう》を無事通過した窓が、満月の突風ぐらいでヒックリ返る筈がない。人為的なものだとテンから思いこんでいるから、来れ、税務署の怨霊。バットを小脇に、夜明けまで見張っていた。
 隣家には伊東署の刑事部長が住んでいる。つまり伊東きってのホンモノの名探偵が住んでいるのだ。
 私は推理小説を二ツ書いて、この犯人を当てたら賞金を上げるよなどと大きなことを言ってきたが、実際の事件に処しては無能のニセモノ探偵だということは再々経験ずみであった。しかし、この時は推理に及ぶ必要がない。泥棒にきまっていると思いこんでいた。
 翌朝、隣家のホンモノの名探偵は現場に現れて、静かに手袋をはめ、つぶさに調べていたが、
「風のイタズラですな」
 アッサリ推理した。
 浴室の窓だから、長年の湯気に敷居が腐って、ゆるんでいたのだ。外側から一本の指で軽く押しても二十度も傾く。突風に吹きつけられて土台が傾いたから、窓が外れ、風の力で猛烈に下へ叩きつけられた。そのとき内側の窓粋が水道の蛇口にぶつかったから、はねかえって、内側の戸が外側に折り重ったという次第であった。
 この結論までに、ホンモノの名探偵は五六分しか、かからなかった。推理小説の名探偵はダラシがないものだ。
 二人の探偵の相違がどこにあるかというと、ホンモノの探偵は倒れた窓をジッと見ていたが、おもむろに手袋をはめると、先ず第一に(しかり。先ず、第一に!)敷居に手をかけて押して
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