が見たいネ。田舎のお祭の因果モノの見世物小屋の話ではないよ。現在日本のホンモノの代議士ですよ。こんなバカらしい茶番は、モリエールでも思いつかなかった。ギリシャの天才もこんなギャグに思い至ることができなかった。茶番が発生する地盤には、もっと高い文化生活があって、これほどの蒙昧を許すことができないのだ。総理大臣がキチガイだったというようなナンセンスは可能であるが、困果モノは文化の世界には容れられない。あくまで田舎まわり専門なのである。キチガイは人間の世界であり、これを治す精神病院というものが確立されているが、因果モノは人間の領域ではない。これに対処するには教育という根本問題があるだけで、因果モノや迷信を治す病院などはないのである。
父一代で不可能な事業を子供に継承させるということは大いに有りうることだ。特に、学術に於ては、そうだ。しかし、そこには、発展ということが当然約束されていることを忘れてはならない。
つまり、人間というものが、本来、過去を継承して、発展する動物なのである。その人間本来の関係が、父子の場合に行われるだけの話で、その子に課された役割は、単なる継承や身代りではなく、発展なのだ。言うまでもなく、子は父から独立している。
自分で果し得なかったことを人にやらせる。追放の政治家が黒幕となってロボットを立てる。天皇をロボットにして、号令を行う。そういうロボットを政治の前提として承認し、これを疑り、改良することを忘れている日本人の蒙昧が、この事件の性格でもあるのかも知れない。天光光正一の因果モノ的関係は、日本人本来の因果モノ性に由来しているのかも知れない。すくなくとも、新聞の筆法を見れば、松谷父子の因果モノ的蒙昧さは、新聞人の頭のレベルでもあることが分る。黒幕だのロボットが公認されている日本の政治の悲しさ貧しさ。日本の政治というものが、因果モノでしかない、という悲しい断定も詭弁ではないのである。
天光光を殺して一家心中するという。まことに狂的で不穏であるが、一家心中というのが日本によくあるのだから、笑うわけに行かない。代議士の一家だといっても特別なものではない。日本がそれだけなのである。
見たまえ。この父に対処する天光光嬢は、身は代議士でありながら、少しずつフロシキ包みにして身の廻りの物を持ちだし、みんな持ちだしてしまうと、父の寝しずまるを待って家出して、
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