ペポ」もピが「トッピャッピ」に一度だけ特例的に使われているにすぎない。つまり唇音の全部が使用されていないと見てよろしいのである。
ここで注意すべきことは日本のアイウエオがまちがっているということだ。
ハヒフヘホに濁りをつけてバビブベボやパピプペポをつくっているが、ハヒフヘホは喉音で、バ行パ行は唇音である。清音中でこれに相当する唇音はマミムメモあるのみであるから、マ行に濁撥音記号をつけるのが理窟には合っているだろう。パーリ語とサンスクリットはそうである。マ行に濁撥音記号をつけている。他にもそのような音表文字を使用しているところは多いだろうが、支那がそうでないことだけは確かであろう。
アイウエオを日本に伝えた中間人種の発音に不具的なところがあった場合に、こういうマチガイが起るのは当然だが、遠隔な地から移動してついに日本の地にまで定着した者が多かったらしいフヨ族のコマ人などは、いかにもアイウエオを運搬した中間人種に見立て易いし、ササラ獅子舞いの楽譜に「マミムメモ」系の唇音に限って清濁撥音とも使用せられず、また濁撥音の使用量が全体的に甚だ少いというのは、たまたまこの楽譜に限った暗合かも知れないけれども、それにしても甚しく滑稽なような、ノンビリしたような奇怪でバカバカしい暗合ではある。
こんな言葉を実用していた人たちがアイウエオを運搬したとすれば唇音の濁撥音記号を他の音につけまちがえたのはちッともフシギなことではない。しかし、これがそっくりコマの実用語だとは云えないだろう。
一部に日本語の歌詞をモツ段もあるように、一部にはコマと日本語の中間的なものや、一部にはたしかにコマ語の部分もあるし、他国語の部分もあるかも知れぬ。そして、まさしく笛の譜に当る部分もあるのかも知れない。
しかし、現在の笛の音はどの段をやっても同じで、それをこの譜で表すとすれば、
「ヒヤロー、ヒヤロー。
ヒヤ、ヒヤ、ヒヤロー」
とでも表せば充分だ。それ以外の音律が吹奏せられることはない。そして、はじめの二ツのヒヤローが各々「モウイイカイ」と「マアダダヨー」に当るのである。
牝獅子隠しの段で、獅子がササラッ子のマン中へ隠れ、牡獅子が探しまわるときに、音譜は
「ヒ、ヒヤ、ドコニイタイタ。
ヒヒヤ、ドコニウ、ヒヤヒヤ」
と綴られており、「ドコニイタイタ」は「どこに行ったか行ったか」であろう。「ヒヒヤ」は「獅子や」であろうというのが一部の人々の臆測であるが、一応そう見ることも不自然ではないようだ。すると、「ドコニウ、ヒヤヒヤ」は「どこにも居ない居ない」らしく、すると冒頭の「ヒ、ヒヤ」は「アア、居ない」というような日本語に訳すべきかね。
だが、その段の内容と睨み合せた上で、音が適当の日本語にほぼ通じているために、これを日本語にこじつけうるのは、この部分だけである。同様の手段で他の段を日本語化する手がかりは完全にないのである。
しかしながら、他の段が同様の手段で日本語にこじつけることができないから、これを日本語にこじつけるのは不適当だとは云えない。なぜなら、全然日本語の歌詞を使用している段もあるし、「チトラル」のように全然異質の音で構成された段もあるからである。だから、この牝獅子隠しの段に限って、
「アア、居ない、どこに行ったか行ったか。
獅子は、どこにも、居ない、居ない」
と、ほぼ音を辿って日本語にこじつけても不適当ではないばかりか、その内容に非常によく当てはまりもするのである。
こう考えて改めて笛の音にきき入ると、モウイイカイ、マアダダヨオ、という子供たちの隠れんぼの声が、この笛の音律と舞いの内容に深いツナガリがあって民族のハラワタをしぼるようにして沁みでてきたものではないかと思われ、そう信じても不当ではないと言いきりたいような大きな感動に私はひきこまれていたのであった。
この笛の音のハラワタにしみる哀調についてはすでに述べましたが、異国の山中に流れきて死んだ亡国の一貴族の運命を考えれば、かかる哀調切々たる楽が神前に奏されることにはフシギがありません。
むしろフシギなのは、無邪気な子供たちの遊びの中に、この武蔵野の隠れんぼのように哀調切々たる呼び声が呼び交されることの方ではありませんか。こう考えるとき、日本の子供の遊びの声には、このほかにも、民族のハラワタからしぼられたような切なさをたたえたものが多いのに気がつく筈です。
「ホーイ、ホーイ、ホータルこい。あッちの水は辛いぞオ。こッちの水は甘いぞオ」
たぶんコマの血をひいているに相違ないと思われる雄々しくて美しい一人のミコトが敵にはかられて死にかけたときそこに流れていた霊泉をのんでいったんイノチをとりとめた悲しい神話の一節を思いだします。
なお「ホーイ」というカケ声は、ササラ獅子舞いの中にも二度だけ現れてきます。
実に民族のハラワタをしぼって草の露にしたような切なさをたたえている。悲痛な父親母親たちが、いつからか、このような呼び声を子供たちに教え、呼び交させたのではなかろうか。
あまり感傷的で恐縮だが、今日の日本が統一されてみんなが日本人になるまでには、一部にこのように悲痛な運命を負うた人々の群れが確かに在ったのは事実ですから。
このコマ村が、それらの悲しい人々の本流か末流かは知らないが、特に悲痛な運命を負うた悲劇的な人々の主たるものがコマ系に多かったことだけは断言しうると思います。その本流は実在的には聖徳太子や馬子などの蘇我氏にまではさかのぼりうる。
このコマ村はそれと関係はないでしょうが、ひきつづいて何十百年悲劇的な運命のみ負うていたコマ貴族の一つの定めを表しているようだ。
コマ家の始祖らしい若光は長生きして老翁となり、白い髯がたれていた。そこで彼を祀ったコマ神社は白髯サマとあがめられて、諸方に崇敬せられたという。
しかし白髯サマの総本家は近江にあるとも云われていた。若光をただちに白髯サマその人と見るのはどうであろうか。コマ家の系図にもそのような記事はないのである。白髯サマとはコマ系のもっと始祖的な、あらゆるコマ系の人々に祖神的な誰かを指しているのだろう。若光のように実在的なものではなく、もっと伝説的なものと考えた方がよろしいようだ。
私は白髯サマの御本体を見せてもらった。いっぱんに白髯サマとか同系統の帝釈サマ聖天サマなどは陽物崇拝とか歓喜仏のようなものを本尊にしているように云われているが、コマ神社の白髯サマはそうでなかった。
一尺ぐらいの木ぼりの坐像だが、およそ素人づくりのソマツな細工で、アゴに白髯のゴフンが多少のこっている。しかし、まことに素朴で、感じのよいものだ。非常にソマツなこわれたような木の箱に納めてあるのも、その方がむしろピッタリしていて、はるか昔この村に移住した貴族の悲痛な運命や、トボケたような生活などにふさわしく、お宮すらもオソマツなホコラにした方がその人の運命にふさわしく、また我々の身にしむような感もあった。
この白髯サマの御神体は一見したところ五六百年以前の作品らしいと見うけられたが、あるいはそれ以上にもさかのぼりうるのか私には分らない。あるいは、カットの写真の獅子面の古い方と同じぐらいまでは、さかのぼりうるのであろう。
社務所の一室で、私たちは持参のお弁当をひらいた。参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ヶ谷文士一行が来ておって太宰治の署名もあったが、呆れたことには、参拝者の大部分が政治家で、特に総理大臣級が甚だ多く参拝している。私は妙な気持になって、
「どういうわけで、こう政治家がたくさん来るんだろう?」
と呟くと、宮司は笑って、
「当社のオ守りは総理大臣になるオ守りだそうで、いつから誰が言いだしたのか知りませんが、たまたま当社に参拝された方々から都合よく二三の総理大臣が現れて、政界に信心が起ったのかも知れませんな。この春は当時大臣の黒川さんと泉山三六さんが見えましたよ」
さては泉山大先生も総理大臣を志しているかと見うけられる。
私もオ守りを十枚買った。これを友人に配給してみんな総理大臣にするツモリであって、私自身が総理大臣になるコンタンではなかったのである。
私たちはオミキをいただき、赤飯を御婦人連へのオミヤゲにぶらさげて、とっぷりくれた武蔵野を石神井の檀邸へ帰る。
檀君の長子太郎にも総理大臣のオ守りを配給したが、翌朝太郎はカバンをひッかきまわしながら、
「モウ、オ守りをなくしたよ。それでも、大丈夫? 大丈夫だねえ」
なにが大丈夫なのか知らないが、総理大臣になるコンタンでもなさそうに見えた。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一六号」
1951(昭和26)年12月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一六号」
1951(昭和26)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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