有り得たことにもよるようだ。だがナゼ、表向きコマ村やコマ家で有り得たのだろう。そのナゼは系図の前部がさき去られているので今日では判然しない。
 しかしそのコマ家にしても一度は源平の争いからまぬがれることができなかった。そしてそれをきりぬけて残り得たのは、祖神を祀るコマ神社に仕え一生を修験道に捧げて半分山伏生活をしていたせいだと系図は語っているのである。
 けれども祖神を祭る大神社をもち大部落民を擁する宮司家や大寺はそのためにむしろアベコベに兵火をうけ易かったものである。それは彼らが広大な荘園をもって繁栄し兵をたくわえる力があったからであるが、それに比べると、コマ家はすでに中世に於て兵をたくわえる力を失い、そのコマ神社も大神社ではなかったせいであろう。宮司が代々修験道に帰依し半ば山伏ぐらしをしていたというのも、この一族のいかにもノンビリと、また小ヂンマリと名利を超越していた暮しぶりが分るようで、それは中世に於てはじめてノンビリと小ヂンマリとしたわけではなくて、ここに集ってコマ郡をたてた時から地下に没する必要のない孤立性を具えて、はじめから小ヂンマリしていたのではないかと思う。
 つまり中央政権を争う人々は日本を統一しての首長でなければならないから、コマやクダラやシラギの人ではなく、日本人になる必要があった。またそれぞれの首長に所属する臣下の人々も日本渡来前の国を失う必要があった。
 ところが日本に渡来土着しながらも敢てコマ人を称しておった一千七百九十九名というものは、敢てコマ人を称する故に、却って誰よりも日本の政争から離れた存在であったとも考えうるが、その辺は何ら所伝がなく系図も破られているから見当がつかないのである。
 彼らがこの地へ土着するにはすでに仏教をもってきた。勝楽という師の僧が共に土着したことは系図によって知りうるのである。
 またこの村の伝説によると、コマ王若光は老齢に至って白髯がたれ、ために白髯サマとしたわれたという。彼を祀ったコマ神社は白髯神社の宗家でもある。
 だが白髯の人物については系図は何も語っていない。そして破り去られた部分に、そのことが有ったかどうかも分らない。
 コマ村の成立と前後してシラギ僧が関東各地に移住土着していたのは史書に見ることができる。浅草の観音サマはすでにその頃から在ったようだが、その縁起がアイマイ・モコたるところから、また寺の創立者の人名にヒノクマとあるところから、百済の聖明王が欽明天皇に伝えた仏教と別系統に、帰化人の誰かが私人的に将来し崇拝していたのが起りだろうとも考えられているようだ。それも有りうることである。
 コマ郡の成立とても霊亀二年とあるが、それは他の七ヶ国から一千七百九十九名をここへ集め移した時の話で、ここにそれ以前からコマ人の誰かが住んでいたかも知れない。
 だいたい七ヶ国から二千名ちかいコマ人を一ヶ所に集め移すからには、その土地に彼らとつながる何かの縁があるからだろう。コマ郡と称したのはその後のことだが、古くからコマ人に縁故の地であり、すでにコマ人が住んでいたと見ても突飛な考えではなかろう。
 しかし、それがどのような縁故の地であり誰が古くから住んでいたかということは、これも全然分らない。
 コマ家の系図の破りとられた部分に何が書かれていたか。今日これを知り得ないのが、まことに残念である。系図の残存の部分の記載が信用しうるもののようであるから、破り棄てられた部分が甚だ惜しいのである。
 コマ神社の起源については系図の語る通りのようだ。屍体を城外に埋めたこと。そして埋めた場所はむかし神殿があったという境内の山上で、そこが古くから墓所と伝えられていたそうだ。勝楽寺の若光墓は供養塔か、他のコマ王か、又はほかの何かであろう。
 その頃の城とか御殿というものは山上山中になくて、川の流れにちかい平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地とほぼ変りのないちょッとした高台にすぎない。
 屍体を埋めた城外が、いま獅子の舞う山上だということも、当時の例からは一番普通と見てよろしいようだ。
 その山上の広場はせいぜい三百坪ぐらい、ホコラの前の地面をのぞいて概ね熊笹が繁っている。
 獅子やササラッ子などに扮した青年や少年たちは山上で一舞いして神霊をなぐさめ、しばらく扮装をといて休憩して、これより山下の神社へ降りる。さて再び扮装をつける前に熊笹の中へわけこんでノンビリと立小便の老人、青年、少年たち。熊笹の下に祖神のねむることを知るや知らずや。しかし、ここの神霊は決して怒りそうもない。実にすべてはノンビリとしている。ここの山上まで見物に登っているのは、私たちのほかに女学生が三四名いただけであった。

          ★

 川越にも、ここと同じような獅子舞いが残っているそうだし、若光の上陸地点と伝えられる大磯にも似た神事があるそうだが、それらについては私は知らない。とにかく、この獅子舞いも笛の音も、現代の日本とツナガリの少いものだ。古いコマ人のものであろう。
 もうコマ村の建物にも言葉にも、風習にも古いコマを見ることはできないが、笛の音と獅子舞いのほかに、一ツ残っているのがコマの顔だ。
 中折のニコニコジイサンはただ一人の祭りの歌を唄うジイサンだが、彼の口もとに耳をよせ、台本と睨み合せて聞いても、何を唄っているのだか一語もハッキリしない。この顔はコマの顔というよりも練馬の顔というべきかも知れない。武蔵野の農村に最も多く見かける顔なのである。
 私たちがピクニックの弁当をぶらさげて飯能で乗り換えたとき、私たちの何倍もある大弁当をドッコイショと持って乗りこんだ多くの男女があるのに驚いた。カゴに一升ビンをつめこんでいる人々も多い。これがみんなコマ駅で降りた。若い女性が多い。さてさて当代の武蔵野少女は風流であると感に堪えて、やがて我々のみ遠くおくれ道に迷いようやくコマ神社に辿りつく仕儀と相成ったが、彼女らも特に風流女学生ではなかったのである。みんなコマ村出身の父兄であり、子弟であった。彼らは実家や親類の家でゴチソウを並べて祭りの日をたのしむらしく、お祭りの境内に一年一度の獅子舞いを見に来ている人は多い数ではなかった。よその村祭りと同じように舞台を造っていたが、夜になると浪花節でもやるのだろう。そして、その時こそは全村老若こぞって参集するのかも知れない。
 三匹の獅子は青年がやる。これに対して十歳ぐらいの少年四人が女装して、ササラッ子という役をやる。よそでは天女と云うそうだが、左手に太い一尺余の竹をもつ。竹の上部は削られて空洞になってるが、これを胸に当ててバイオリンのようにもち、右手に割り箸を合せたようなササラをもち、ササラで竹をこすって音をだす。音と云ってもザラザラザラとこすった音しか出ないのは云うまでもない。頭上に四角の箱をのせて四方にベールを垂らし、箱の上には花飾りのような棒を何本も突ッ立てている。
 メスの獅子が隠れる時は四人のササラッ子のマン中に隠れる。その周囲をオスの二匹がさがしまわる。
 この舞いをササラ獅子舞いと云っているが、舞いは全部で四十四段あり、名称と笛の音が次のようになっている。

[#ここから2字下げ]
[#ササラ獅子舞いの笛の音の表(fig45910_01.png)入る]
[#ここで字下げ終わり]

 こんなのが、四十四段ある。
 ヒヤロ、ヒヤヒヤロ、というようなのは、いかにも笛の音のようだが、それはよそのお祭りの笛の音で、このお祭りの笛はそんな陽気な笛の音ではない。
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 というのに似たような単調な繰返しがあるだけで、いくら舞いの段が変っても笛の音の方に変化はない。昔は変化があったにしても今の単調な繰返しに考え合せれば、いかに昔が多彩であろうとも、この譜のような複雑な曲は考えられないのである。段によっては、笛の譜の代りに日本語の唄になってるのもある。だから、笛の譜と称するのも、昔のコマ言葉の唄なのかも知れない。全部がそのまま言葉にしては、単調すぎて異様であるが、至極単純な句とハヤシ言葉の合成したものかも知れない。
 これにやや似たようなのはカグラやサイバラにも見かけられるし、猿楽、能楽にも似たようなのが見うけられる。ところで、私はこれをいじりまわしているうちに、一ツのことに気がついた。
 この笛の譜と称するもので、最も多く現れるのは、ウ、ト、ヒ、ヤ、リ、ル、口の七音の組合せによるものである。これを組合せたものは全部で次の通りになる。
 ヒ行[#「ヒ行」は太字]
 ヒ
 ヒー
 ヒト
 ヒート
 ヒヒ
 ヒーヒ
 ヒーヒヤヒヤロ
 ヒヤ
 ヒヤト
 ヒヤヒ
 ヒヤヒト
 ヒヤヒヤ
 ヒヤーヒヤ
 ヒヤヒヤウ
 ヒヤヒヤヒ
 ヒヤヒヤリ
 ヒヤヒヤロ
 ヒヤヒヤリロ
 ヒヤリ
 ヒヤリコ[#「コ」に傍点]
 ヒヤリコ[#「コ」に傍点]ロ
 ヒヤリト
 ヒヤリロ
 ヒヤリロリ
 ヒヤロ

 ト行[#「ト行」は太字]
 ト
 トト
 トヒ
 トヒトル
 トヒヒヤヒ
 トヒヤ
 トヒヤウ
 トヒヤヒ
 トヒヤヒヤヒ
 トヒヤリ
 トヒヤリロ
 トヒロ
 トヒロヒ
 トリ
 トル
 トルヒヤ
 トルヒヤロ
 トルト
 トロ

 ウ行[#「ウ行」は太字]
 ウ
 ウニ[#「ニ」に傍点]ヤ
 ウニ[#「ニ」に傍点]ヤウニ[#「ニ」に傍点]ヤ
 ウニ[#「ニ」に傍点]ヤリ
 ウニ[#「ニ」に傍点]ヤリ
 ウヒ
 ウヒヤ
 ウヒヤリロ
 ウヒヤロ

 リ行[#「リ行」は太字]
 リヒヤリロ

 ロ行[#「ロ行」は太字]
 ロ
 ロヒ
 ロリ

 となっており、ウ、ト、ヒ、ヤ、リ、ル、ロのほかに稀にコとニが使われているが、これは片手の指で数えるほどしかない。全語数(かりに語とよぶが)の九割以上を占めるのが右の通りで以上主としてたッた七ツの音の組合せで出来ているものである。
 ただ第三十七段に「チトラル」という特別の段があり、ここだけは主として全く別個の音で語をなし、これを整理すると、次の十語の組み合せで出来ている。即ち、
 ラ
 ウラ
 ラル
 ラルラ
 トル
 トルラ
 トルラル
 トラル
 チトラル
 デコデンデン
 この十語のうち、前表中に見出すことのできるのは「トル」の一語あるのみである。
 以上のほかに、前掲の主たる七音と他の音とを組み合せて語をなし、しかも極めて少数しか現れないものに次のようなものがあり、これは若干言葉らしいオモムキをそなえているようだ。
 ジョウジョウネコ
 ホホールト
 ホール
 トッピャッピ
 オカザキ
 デコデンデン(前掲)
 ダンコクサイ(又はダンゴグサイ)
 ゾンゾロシガ
 シルコラタレ・タータ
 チトラル(前掲)
 ドコニイタイタ
 ドコニウ
 以上で全部である。これを組み合せたのが四十四段の楽譜であるが、ジョウジョウネコなどというのはあるいは人名かなア。オオタタネコだのナニワノネコ武振熊《タケフルクマ》だのと云うように。
「ドコニイタイタ」は獅子がササラッ子の中に隠れた段に発せられ、
「どこに行った行った?」ではないかと云われているが、するとそれにつづく、
「ドコニウ、ヒヤヒヤ」
 は、どこにも居ない居ない、というような意味であろうか。
 さて、以上の全ての語を合せても、これをアイウエオに合せてみると、全然使用されない音がたくさん現れる。清音では、
「ア、エ、ケ、ス、セ、ソ、テ、ナ、ヌ、ノ、ハ、フ、ヘ、マ、ミ、ム、メ、モ、ユ、ワ」
 等、二十にも及ぶものが全く使われていない。
 濁音と撥音では、使われている方が例外のように少数で、わずかに、
「ガ、ザ、ジ、ゾ、ダ、デ、ド、ピ」
 の八ツ使われているだけで、他の十七は使われていない。濁音と撥音の使用が少いのが目立つのである。
 結局、アイウエオの各行中に一行全部が使われているのは「ラリルレロ」だけ。これに反して「マミムメモ」と「バビブベボ」は一度も使用せられず、また「パピプ
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