だ。
 けれども多治比島の死んだころから、いくらかコマ人が日の目を見るようなことになったようだ。外交的にもシラギ一色というものからそうでないものへと転じ、聖徳太子発案の直接支那大陸の文物と結んで中央政府を確立する政治の方法へと転じ、それを次第に強力に実行するようになった。
 そして奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ系だのコマ系だのというものは、すべて影を没したかに見えた。しかし実は歴史の裏面へ姿を隠しただけで、いわば地下へもぐった歴史の流れはなお脈々とつづくのだ。
 多くのシラギ人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に飯能に土着したり、彼の死後三年目に若光がコマ王姓をたまわり、十五年後に七ヶ国のコマ人一千七百九十九人が武蔵のコマ郡へ移された、というようなことは、シラギとコマが歴史の地下へもぐったうちでも実はさして重要ではない末端のモグラ事件であったかも知れないのだ。
 なぜならこれらのモグラは歴史の表面に現れている。けれどもモグラの大物は決して表面に現れない。むしろ表面に現れている末端のモグラを手がかりにしてもっと大物のモグラ族の地下でのアツレキを感じることが
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