し、今は中山氏を称している。この子孫の分派にもコマ氏があるが、コマ村のコマ氏とは関係がない。
丹治氏の祖、多治比島は持統四年(西紀六九〇年)に右大臣となり、文武四年(西紀七〇〇年)に左大臣となり、翌年死んだ。この大臣の出現モーローとして煙の如くであるが、彼の執政時代は藤原鎌足歿後、石上《いそのかみ》麻呂や藤原不比等らが現れるまでの臣下の大臣の空白時代に当っていて、彼が右大臣の時も左大臣の時も臣下唯一の大臣、最高の重臣だった。
彼の執政中はその前からひきつづいてシラギと交渉深かったときで、多くのシラギ人を関東諸地へ移住せしめてもいる。
若光が王姓をもらいコマ王を称したのは島の歿後二年目のことで、その前年に持統帝の崩御もあった。
コマ村と飯能とはコマ峠を一ツ越しただけの隣りであるし、丹治氏の子孫にもコマ氏があるぐらいだから、多治比島もコマ人を祖先にする人かと一応考えられるが、執政中の出来事を見ると、むしろシラギ系の頭目のようである。むろん政治には色々の裏があり綾があるから、表面の史実をウノミにすれば裏面の真相は判らない。政治というものは、現代史の裏面すら一般の現代人にはわからないの
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