あがめ、郡中に凶事があるとこれに祈った。長子家重が家をついだ。天平勝宝三年に僧勝楽が死んだ。弘仁と其の弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺をたてた。聖雲は若光の三番目の子である」
という意味の前書きがあって、そこから系図になっている。その系図は
家重。弘仁。清仁。(以下略)
とあって、家重は死んだ人の長子であり、弘仁は家重の弟らしく、又その弟に当る三男が聖雲らしく、清仁は弘仁の子である。
この前書の前の方がチョン切れているから死んだ人の名は現れないが、恐らく若光をさすのであろう。
虫が食ったと云われているが、実際はそうではない。中世に焼けた後に、一族参集して一度は再び完成した系図があったのである。ところが、それを更に後世の誰かが「これによって」の前の方を引き裂いて捨てたのである。虫がくったのではなく引き裂いた跡はハッキリしており、さき残った字の一部分がついているが、偏の一部程度だから読むことはできない。
後世の子孫が引き裂かねばならぬ理由があったのだろう。たぶん国撰の史書と異る記載があるために、後世の子孫にとって当時の事情として都合がわるい記事があった為だろうと察せられる。なおこの系図はその後一時人手に渡ったこともあり、また明治十八年には内閣修史局のモトメに応じて差しだし、内閣修史局で模写をつくり原本を本主に返したともあるから、それらを機縁に一部を破却する必要があったのかも知れぬ。
★
白髯《しらひげ》神社は武蔵野に多く散在しているが、一番有名なのは向島の白髯サマであろう。しかし白髯明神の総本家はコマ神社と云われている。
私は武蔵の国コマ郡コマ村と、コマ神社の存在については以前から甚しく興味をもっていて、この新日本地理に扱うために、すでに今年の二月コマ村を訪問しようとしたことがあったのである。
なぜなら、私はこの神社の祭事は必ず正月十五日にあるだろうと信じていたからだ。道祖神系統の祭事はたいがい十五日だが、特に正月十五日が主流のようで、鳥追だのホイタケ棒だのというのが行われるのもこの日取のころが多い。道祖神のようなものは蒙古には今でも同じような信仰があるし、コマ人は支那文化をとりいれて日本に土着するまでに相当に文化的扮装をとげているが、その基本の系統をさかのぼると蒙古までは間違いなく至りうるようである。それから更にチベットや中央
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