しかし中途ハンパの現実感は芸術のコンゼンたる構成を損いやすいもので、よッぽど芸が達者でないと危ッかしくて見ていられないものである。
 宝塚には危ッかしいところがない。それが何よりである。学芸会の大がかりな余興のような乳くさいところがあっても、そこにコンゼンたる構成があってオヤジが娘の出来栄えにハラハラしなければならないような危ッかしさがなければ何よりの娯楽の一ツに数えうるであろう。宝塚にはそういうハラハラは感じられないし、時には惹きこまれることもある。そして、南悠子の演技がやや性格を表現しているといっても、結局あとで一番つよく残るのは男役だ。男の私にとっても、男役が結局印象にのこった。結局、女性が男に扮することが効果的なのだろう。女が男に扮するにはナマの自分を利用するわけには行かないし、一途に太陽神的な高さを狙うことが陋巷《ろうこう》にアクセクする我々の心に涼風の快味をもたらすオモムキがあるのかも知れない。とにかく畸形の感じはありません。アベコベに効果的なものですよ。まア一度見てごらんなさい。踊り子たちも清潔な感じで、ボンヤリ眺めているには好適なものです。もっとも前夜から行列しない
前へ 次へ
全40ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング