れないようなフシギな中性動物が現れてくるのだから、生きた人間と血は通わなかったろう。公然ワイセツ陳列罪などというのがあるそうだが、戦前の宝塚はこれをアベコベに人間歪曲罪と申すべきや。不当に人間を歪めて涙をしぼらせタメイキをもらさせたりするのも罪の一つだと私は思うな。セップンという言葉も使わないというようなことは、善でも美でもないですよ。本当の人間のよさ美しさは、そんなチャチなものではありませんとも。
 最近、宝塚のスター連が映画や他の舞台へ出たがるのが流行だそうだ。宝塚にあきたらず、ひろい天地をもとめての行動だという。ひろい天地と云えば、舞台公演が一ヶ月で十万人ぐらいしか相手にできないのに比べて、一本の映画は何百万、何千万を相手にすることができる。そういう広さは確実にそうだけれども、作品の内容の高さ深さ広さや、芸格の幅に関しては、どういうものですかね。日本の映画は、ひろいですか。広い天地だとも思われないな。
 相手役の芸に関してだって、映画俳優が宝塚より達者だとも思われないし、作品の内容や、構成の巧拙だって、宝塚が下だとは思われないね。たとえば、作者について考えたって、白井鉄造という人は、日本に何人も居ない大作者であり、大指導家ですよ。彼が完成した宝塚調というものは、ともかく日本には珍しい独創的な作品の一ツであるし、たしかに独特の美を生みだしております。これだけ独特の仕事を仕上げた作者は日本の映画界に居るとは思われない。
 宝塚がせまいといえば、特別な動物に占領されているせまさなのである。「虞美人」的な方向に向えば、やがてチエホフを宝塚的にとりいれることも不可能ではなかろう。
 南悠子壊の虞美人はともかく一ツの性格がでていた。そしてこの一人以外には性格を表現している俳優はいなかった。しかし、これは俳優たちが性格が表せないわけではなくて、宝塚の脚本が性格を表すような劇を扱わないせいだ。私は過去にラジオできいたり雑誌でみたりした脚本では、登場人物全てに宝塚調という特性はあっても、人間の性格なぞありやしない。人間に性格があっては、過去の宝塚調は破れてしまうし、それは「人間の劇」になって、「宝塚の劇」というお行儀のよい中性的メルヘンでなくなってしまう。
 ともかく今度の「虞美人」に至って、主役の一人がかすかではあるが性格や人間臭をだせるような脚本を扱ったという次第であろう。
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