ての口上も、水際だっていた。これを宝塚調の長所というべしと思いました。
「我は漢の劉邦なり」
「我は楚の項羽なり」
という神代錦、春日野八千代両嬢の見栄は、カブキとはオモムキの違う力で男の我々をも打ちますよ。光りかがやくようなリンリンたる力の権化を感じさせ、我々は力に打たれるのですが、男の我々にとってもノスタルジイのような、純粋な力、古代人が太陽神に寄せたような理想上の純粋な力を感じさせます。女が男に扮した良さだろうと思いましたし、つまり、そこが宝塚の良さだと思いましたね。そしてサッとひきあげる呼吸も水際立っていました。いかにもその道のベテランたちが力を合せて作りあげた舞台の感じ。安心して、まかせきって見ていられる感じでしたよ。芸にたずさわり、批判的に芸を見がちな私のようなものが、その劇場に居る限りは、作者や教師、演者たちの機智にまかせきって、たのしめるという安定感を与えてくれる劇団はそう多くはありません。その安定感を与える力があれば、それは大人の舞台と申すべきで、宝塚は名は少女歌劇ですが、その舞台は大人のものと申せます。まだ芸の未熟な少女も未熟ながらみんな生かして使っており、見ばえとか効果というものを自家薬籠中のものとしたシニセの安定感と申しましょうか。作者指導者に人材もいるのでしょう。
★
女だけの劇でありショオであるから、すでに男の子に魅力があるのは当然であるのに、男の子は見に行かない。まして、よくまとまって大人の舞台をなしているのだから、男が見て面白くない道理はありません。ところが、もっぱら女学生の専用に供せられて、全然男の観客と縁が切れているのは、少女歌劇の内容のせいではなくて、ボージャク無人の女子占領軍のせいらしい。また、その占領軍の一人ぎめの気風によって宝塚は伝説化され、一般の人間と隔絶して、生きながら神話の宮殿で特別興行をしているようなオモムキである。つまり伝説上の宝塚は一般の人間とは生きた血が通い合わないように感じられ、信ぜられているのであろう。しかし宝塚の舞台そのものはマットウであるし、宝塚調というものも、不自然でもないし、畸形なものでもありません。
ただし、これは敗戦後の新現象ですね。戦前の宝塚はこうではなかったようだ。当然の男女関係のマットウな表現も言葉も筋立ても封ぜられて、宝塚的な妙な男女関係、火星人にも考えら
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