、まさにパチンコ屋に於ける彼女らを云うのであろう。姉も妹も、すでに、ただ単に無限の攻撃突貫を意志している鋼鉄のタンクそのものらしい。二人は顔を見合せることもないし、戦友らしく励げましの言葉をかけ合うようなチャチな人情の如きに目をくれる甘ったるい兵隊ではないのである。妹は攻撃が停止する寸刻がもどかしくてたまらぬらしくセカセカと空気銃を膝へ当てて折って、もしも袖ナシの服でなければ、やにわに腕まくりをしたであろうし、それすらももどかしくて袖をちぎって捨てずにいられないような充実しきった攻撃精神やセンメツの気魄によって、前へ、前へ、身体が押しだされ、延びて行く。彼女はまだ中学生であろう。頬はリンゴのように真ッ赤になっているし、眼は三白眼かヤブニラミに見える。それは捕虜をとらえればその場で処刑する戦意を示しているのである。彼女はふと気がついて帽子をぬいで台の上においた。彼女の帽子はアゴヒモのついた丸いツバのある夏の帽子で、鉄カブトよりも戦闘に不自由であったらしい。
 この土地にきてはアベックなどはダラシがなくてミジメそのものの存在さ。男と女が恋愛をする、その恋愛によって、互に相手に良く思われようと言葉の数を控えてみたり、言葉の表現や表情に意をめぐらしてみたりする、食堂で中食をたべてもあんまり大食と思われるかしらと考えなければならないような衰弱しきった自己表現や和平運動というものが、いかに不用で、ミジメなものかということが、この土地に於てハッキリするようである。人生とは戦争である。否、一撃のもと敵のノド笛をきり、イノチを断つことだ。和平運動とは衰弱者の妄想だ。男と女が食事や言葉をひかえて妥協和平をカクサクするのは彼らが衰弱しきった病弱者だからである。結局そういう結論を宝塚のパチンコ屋で戦意とみに昂揚している娘たちが教えてくれるのである。
 だからアベックは仕方がない。自然に植物園へ追放されて木蔭のキノコかのように益々モタモタとムダな時間を費している。とにかく仕方がないのさ。女だけのパチンコ屋というものはフシギの多い日本のうちでも宝塚にしかないだろうからねえ。ここは女だけ集ってパチンコ程度の殺リクをやってるだけではなくて、独特の思想も、政治も行っているようなものさ。マキャベリの如きものは女将軍の背中を流す三助にも当らない。ただの女兵隊の背中を流す光栄を許されうるかどうかすらも分ら
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