にかのうものだという話だが、この難民が占領している宝塚には、難民がサビを愛した遺跡というものはないのである。
 否。否。宝塚には茶室があるぞ。国宝の風格をそっくり移したサビの根本道場があるぞ、と云って怒る人があるかも知れんが、それは難民の遺跡ではないのである。小林一三さんの道楽である。もっぱら茶人とか俳人という現代に於ける半獣半神的人物が神つどいを催す席で、難民たちの多くはその存在すらも知らないなア。
 もっとも小林一三さんの秘密の初志によると、半獣半神の神つどいに供するためではなくて、難民たちの風雅の会に供するためであったかも知れない。小林一三さんほどのケイ眼な実業家ですらも、一度はこの難民にだまされてもフシギはない。犬のヌケ穴からムリに身を現して一服もるという困難な所業が、全然他に活用する意志のない面従腹背の学習だということは誰にもはじめは分らない。これこそ難民の性格なのである。そして、サビに対して面従腹背の難民に保護せられたものが宝塚少女歌劇であるということが分ると、宝塚を理解するのはもう手間がかからない。
 あの楽屋口のひしめき、叫び、それからタメイキに耳をすましてごらんなさい。面従腹背のトモガラがひそかに忠誠を誓った神を迎える逆上ぶりなのである。要するにこのトモガラは面従腹背を一生の定めとしていることを現しているようなものさ。このトモガラは忠誠を誓った神の名を一生にタダ一度云うだけで、あとは生涯貝のようにフタをとじて語らない。一生に一度だけ本当の神の名を告白するというわけは、その告白が罪にならなくて、公然と許されており、またそうすることが英雄的行動の誇示にもかのうからである。宝塚難民の逆上混乱、颱風的様相というものは、その数年後に貝ガラのフタを堅くとじて一生自分の神の名を、また本当のことを語らなくなる冷静きわまる人物の本性を証しており、後日の深謀遠慮に比べれば、実にウカツにまたフシギにもシッポをだしたものであるが、つまりこの冷静きわまる人物が罪の意識を失って世を怖れなくなる時には何事をやるか分らない。原子バクダンを自分のキライな奴の頭の上でドカンと一発やることについて、その本性に於ては人をはばかり世をはばかるところはない。彼女自体がネジによって辛うじて自然のバクハツをくいとめている原子バクダンそのものに外ならぬのである。この彼女を宝塚の難民とも云うし、単に
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