。しかし、たったそれだけで大人ッぽいことにはなりますまい。すぐれた童話は大人の読み物だが、それに類することは宝塚についても云えるでしょう。
 男役について云えば、春日野や神代の現す男性には気品がある。それは女性が男性に対してまッとうに願望している理想のものを現している気品であろう。それは古代人が太陽神によせて考えた力や気品や理想に似ている。こういう理想の最高のものを願望的に表現しようとする劇の作者や演技者の心構えはこれを古典的、童話的と云うこともできよう。
 松竹の方は、もっと現実に近くて、その願望が現世でかなうかも知れないような現実的な理想に表現の目安《メヤス》をおいているようなところがある。そういう現実感が大人ッぽいものに感じられる主要な要素であろう。一方が夢のような太陽神を理想にすれば、一方はお地蔵サマに願をかけているようなもので、どうか月給があがりますように、とか、千客万来お店の繁昌たのみます、というようにお地蔵サマと多くの人々には日常生活上のナマナマしいツナガリがある。コマッチャクレた女学生はそういう現実性を大人のものと考え、宝塚は子供ッぽくて夢のようでバカバカしいと考える。
 しかし中途ハンパの現実感は芸術のコンゼンたる構成を損いやすいもので、よッぽど芸が達者でないと危ッかしくて見ていられないものである。
 宝塚には危ッかしいところがない。それが何よりである。学芸会の大がかりな余興のような乳くさいところがあっても、そこにコンゼンたる構成があってオヤジが娘の出来栄えにハラハラしなければならないような危ッかしさがなければ何よりの娯楽の一ツに数えうるであろう。宝塚にはそういうハラハラは感じられないし、時には惹きこまれることもある。そして、南悠子の演技がやや性格を表現しているといっても、結局あとで一番つよく残るのは男役だ。男の私にとっても、男役が結局印象にのこった。結局、女性が男に扮することが効果的なのだろう。女が男に扮するにはナマの自分を利用するわけには行かないし、一途に太陽神的な高さを狙うことが陋巷《ろうこう》にアクセクする我々の心に涼風の快味をもたらすオモムキがあるのかも知れない。とにかく畸形の感じはありません。アベコベに効果的なものですよ。まア一度見てごらんなさい。踊り子たちも清潔な感じで、ボンヤリ眺めているには好適なものです。もっとも前夜から行列しない
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