一貫していることだけはハッキリ感じられますよ。
 ひろい天地をめざしてバラックへ引越すのは、どういうもんだろうね。まア庶民住宅はバラックに相違ないが、芸術家はどんなアバラ家に住んでも、彼の住む限りはバラックではないものだ。
 ひろい天地の芸術家でありたいと思ったら、宝塚少女歌劇そのものを、女子占領軍専用から解放して、ひろい天地のものとするように一考し努力さるべきであろう。
 なぜなら宝塚は劇団そのものがユニックでもあるし、その技術水準も、他の劇団や映画にくらべて低い方ではありません。私は「雲の会」の会員であるから、文学座を見物したり、新劇運動を応援したりする義務があるけれども、宝塚の生徒さんにくらべると、新劇の女優さんは女子大学を卒業あそばしたりして大そう学がおありだけれども、芸術というものは、学だけではどうにもならない。眼高手低は芸術にならないのである。見ているとハラハラするから、たのしむというわけに参りません。
 宝塚の生徒が新劇がやりたかったら、新劇へ加入するよりも、自分たちだけで新劇もやってみることだ。その方が万事につけてユニックだ。どういう新劇が現れるか知れんけれども、とにかくタダモノではない。新劇などというものは先生のまわりへ素人の男女が集まって忽ちでき上って通用するカタムキもあるが、宝塚はそうカンタンにはできない。素人の女が百人集って男なしの劇団をつくっても、それは宝塚にはなりません。とにかく宝塚はバラックではありませんよ。
 新劇に限らず、万事につけて宝塚自身がひろい天地をめざす方向へ進んだ方が、結局個人の才能を最も有効にひろい天地に生かすことになりそうだね。時に例外はあるだろうが、とにかく宝塚という母胎は、たいがいの生徒さんの芸よりもユニックですよ。そして、伝説的に人々に考えられているように、決して畸形ではありません。カブキですらも畸形ではないが、宝塚はそれよりも健全だ。なぜならカブキは現代と一しょに生活しているものではないが、宝塚は現代と一しょに生活しているのですから。女子占領軍がいくら特別の逆上性動物であるにしても、あそこまでナマナマしく逆上させるからには現代の芸術にきまっていますな。
 松竹少女歌劇にくらべると、宝塚の方が子供ッぽいと云うが、そして松竹の方はたしかに男の子もタクサン見物しているし、なんとなく劇の筋も所作も大人ッぽいところはある
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