には恋人であり皇后でもある人の問題も含まれていて、父や兄に味方するか、良人に味方するか。肉親同志の微妙な相続問題や、愛憎問題が主として各天皇史の多くの悲劇の骨子となっている。
神話や上代史がそうなった理由の最大のものは、その国史をヘンサンした側が、直前に肉親の愛憎カットウの果てに兄の子を殺して皇位についているからで、それを各時代の神話や天皇史に分散せしめて、どの時代でもそれが主要な悲劇であり、悲しいながらも美しいものに仕立てる必要があってのことだ。それが記紀ヘンサンの主要な、そして差しせまった必要であったはずである。
赤の他人の天下をとるということは、それほど神経を使う必要のないことだ。赤の他人同志なら勝った方が英雄で、それで通用するはずのものだ。だから日本の古代史だって、恐らく当時のレッキとした王様に相違ないものがクマソとかエミシとか土グモとかと、まるで怪物でも退治したように遠慮会釈なく野蛮人扱いにされて、アベコベに退治した方の側はいつも光りかがやく英雄と相成っているではないか。
むろん統治の方便として、それだけでは済まないから、一応は敵を野蛮人に扱っておいても、同時にその土豪の子孫や帰順者の首長を国ツ神に仕立てて統治者の一族の如くにしてやることも必要であろう。
しかるに両面神話は、その最も主要な問題が肉親間の相続争いを各時代の悲劇として美化するだけのものではなくて、両面の一方には他人も含まれている。即ち肉親相続の悲劇と他人の天下を奪ったのとが相重なり合い、それによって両面神話を複雑にもしているし、両面神話の形式がどうしても必要であった必然性も現れているのである。それはなぜであろうか。
その「ナゼ」を物的証拠で推理するのはどんな名探偵でも不可能で、特に私のような素人歴史探偵には困難であるが、しかし、それをいくらか推理する方法がないこともない。
それを推理する方法は、新しく天下を平定した人たちが平定後に何をやったか、ということだ。現存官撰史から判断して、新統治者の第一祖は天智天皇であるが、しかし官撰史を必要とした当面の人々は天武の一族であるから、この天武、及びその皇后で次の天皇たりし持統帝及びその直系の帝らが平定後に何をやったか。それをシサイに見てゆけば何かの手ガカリはある筈です。ところが、たしかに驚くべき奇怪なことが行われておるのであります。
天武天皇の十三年二月に使をつかわして畿内に遷都の地をさがさせたが(この使者の主席は広瀬王です)同じ日、三野《ミノ》王らを信濃につかわして地形をしらべさせた。書紀の文はそれを評して、
「マサニコノ地二都ヲツクラムト欲スカ」
とありますよ。信濃へ遷都のツモリならんかと時の人は疑ったのでしょう。三野王は四月に戻ってきて信濃の図を奉ったが、翌年十月にも使をだして信濃に行宮《あんぐう》をつくらせた。これは筑摩、今の松本あたりの温泉へ行幸のためならん、と書紀は書いています。
ところが、信濃遷都も行幸も実行されなかった。信濃へ遷都とか行幸の問題がなぜ起ったかというと、大化四年にもエミシ退治のため信濃に要塞をかまえるようなことをやってるから、そういう必要があってのことでしょう。天武天皇は「帝都はいくつも必要である」と言明した記事が見えてます。これだけなら、別に変でもないが、それから三十三年後に妙テコリンの事が起った。
元正天皇が美濃に行宮をつくって行幸し、数日間タギ郡タド山の美泉というのをのんで帰って、
「朕《ちん》はミノのタド山の美泉を連用して参ったが、顔と手はスベるようになる、痛みはとまる、白髪は黒くなる、夜も目が見えてくる、その他の何にでもきく。まさに老を養う水の精とはこれだ。このフシギを目のあたり見てはジッとしてはおられん。よって養老と年号を変え、罪人の罪を許す」
大そう変ったミコトノリを発して年号を変えて、大赦を行いました。「俗に云う孝子と養老の滝が酒になったという話はツクリゴトで、これが養老改元の発令された真相なのであります。
信濃と美濃へ遷都だとか行幸という目的は、実はその温泉が目当てのようだ。
ここに思いだされるのは、日本武尊が伊吹山で気を失って死にかけたとき、清水をのんだら、いったん目がさめたという。それでサメ井の美泉とか称されて天下に名高い美泉伝説がある。
大友皇子の運命は日本武尊の悲劇によく似ている。どちらも天皇に殺されてるし、殺された場所が伊吹山を中にはさんで東と西、ミノと近江に分れているだけだ。おまけに日本武尊の死体は白鳥となってなくなり、大友皇子は首を敵に持って行かれてしまう。
さて、ここで壬申の乱、天武天皇と大友皇子の戦争のところの文章を見ていただきたいのです。天武天皇は美濃に陣をかまえて近江へ攻めこみますが、この文章の順だと、近江に近い方から、不破、野上、ワサミの順に陣をかまえた筈でなければならないが、ワサミに大軍がおってこれを握ってる高市皇子は近江の方へは全然動いた記事がありません。のみならず、近江方の羽田公矢国という大将が帰投すると、これを味方の大将に任命して、越《コシ》へ攻め入らせています。近江に敵がいるのに越を攻めるとはワケが分りません。
まア、そのへんはどうでもいいのですが、伊勢、伊賀、尾張、美濃などの大軍がうごき、近江の方も九州や東国へ援軍を送るように使者をだしている。それによると、東の方は天武の領分で、西の方の諸国は近江方の領分のように思われますが、大友皇子の命で筑紫へ援軍をもとめにゆく使者がアズミ連《ムラジ》です。
一番変テコなのは、すぐお隣の国で、そしてどちらの陣にとっても一番ちかいお隣りのヒダに、どちらも援軍をもとめない。それどころか、信濃という言葉はでてきても、ヒダという言葉は完全に一度もでてきません。これはどういうわけでしょうか。
すでに申上げたように、両面神話はたいがい一応アベコベにひッくり返してあるものだ。壬申の乱では伊吹山を中心に敵味方が西と東になってるが、筑紫へ行く使者が明かに信濃の生れたるアズミ氏だから、これも恐らくアベコベになっているのだろう。それも伊吹山が中心ではなくて、両方にとって隣国でありながら全然タブーの如くに一度も名が現れないヒダというひみつの国が実は中心であって、ヒダ中心に東と西が逆になっている。こう見ると多くのことが大そう分り易くなって参ります。
それ以前の歴史で見ても、日本武尊の東征の順路とか群蠅の飛んだ順路などで、ヒダ、シナノ、上野、常陸、越、奥州などが皇威に服さぬ一連のエミシどもの住む土地であることが分る。すると、実は東国の方が大友皇子の側だということが分るでしょう。
したがって、日本書紀に現れる戦争の地名は、むろん戦場がその土地ではない筈だから全然デタラメなコシラエモノにきまってる。しかし、両面神話というものは、それが各時代のいろいろの両面人となって現れてるうち、そのどこかに真実が隠され暗示されているものだ。
すると、大友皇子によく似ているのは日本武尊であるから、この戦争の陣立がアベコベになってるように、日本武尊も東征の往路と復路の二ツがあるから、その復路の方が、そして日本武尊が信濃坂で道に迷い伊吹山で死ぬまでのところが大友皇子の場合を現しているのかも知れない。一応は、こう見るのが自然かも知れません。
私はしかしそうではないと思うのです。なぜなら、日本武尊と大友皇子の話は伊吹山を境にアベコベになっています。ところが壬申の乱の陣立は、必死に隠されているのがヒダですから、このヒダを中心にアベコベになっているらしいのです。ところがヒダのマンナカにはヒダとミノの国境に接するあたりに重大きわまる両面神話があるのです。実際、まったくマンナカなのですよ。神話自身がマンナカだと云っているのですから。
つまり、豊葦原の中ツ国という天孫降臨にからまる両面神話があったではありませんか。日本の中ツ国で大国主の住むところだと云うから大和かと思うと、さにあらず、ミノ藍見川のほとりだ。そこはヒダがミノに接するほぼマンナカでもあって、その近所には三和《ミワ》もある。八阪ヒメの生れたところらしい八阪もある。昔のミノのマンナカらしいミノの町もあるし、大和もあるし、伊瀬《イセ》もあるし、富波《フハ》もある。この場合の不破の関は武儀郡と境を接する富波であったに相違ありません。この富波からヒダへ向えば、天ノワカ彦の喪山をはじめ山また山がつづくことになるのです。人麻呂が不破山をよんだ歌の順路はピッタリします。
天のワカ彦が天照大神《あまてらすおおみかみ》の返し矢で胸を射ぬかれて死んだのは藍見川の左側ですが、両面スクナのヒダ伝説によると、彼がミノへ出陣して矢で負傷して敗退した地点はブギ郡の下保で、実に藍見川をはさんでちょうど右と左なのです。
しかし高市皇子が天武軍の先陣をうけもっていたらしいワサミは、今のヒダ金山のあたり、この郡は当時はミノの国に含まれていたようで、この金山近辺をワサミ郷と昔は云っていたらしいようでもあります。
けれども、この同じ郡の北端ちかく、ヒダへ最も近いあたり、小坂だの萩原だのと重大な二つの町のマンナカへんの上呂に、昔から有名な浅水橋という橋があるそうです。この浅水がワサミかも知れませんな。ここは昔のヒダ、ミノ両国の交通の最大の要点でしたろう。さすれば、ここに侵入軍の先鋒があったのは当然でしょう。しかし、そこで大友皇子の敗退の地がどこであるか。むろん正しい真相がこれに限るという如くに分りッこありません。
この敗退ぶりをスクナの伝説で申すと、下保で負傷して、いったん宮村へ逃げ、宮川をはさんで戦って今の水無神社のところで死んだということになっています。
書紀の戦記は近江に当てはめてるから、ハッキリ分りませんが、大友皇子は二十日あまり奮戦の後、粟津で負けて逃げ場がなくなり山前《ヤマザキ》に身を隠してクビをくくって自殺したという。このとき皇子側には智尊《チソン》という大将が突如現れて大奮戦していますが、橋のマンナカを切り落して戦ったという。ヒダに「中切」という地名が方々にあるのは、これと関係があるのでしょうかね。皇子の自殺は七月二十三日でした。多くの家来はみんな皇子をすてて逃げ散りました。皇子に仕えている重臣はみんな天智帝以来の高位高官で、蘇我|赤兄《あかえ》、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人、この五人が特別重臣。特に最も重臣たるのが左大臣蘇我赤兄ですが、これと同じ名が妙なところに現れています。
諏訪神社の神氏系譜というものに、神様から代々の系図があって、武ミナカタの命の子孫がスワの大祝として今に相伝えて、当時は
乙穎(天智の人)――赤兄
となっており、天智のころの人の次の赤兄といえばまさに時代が合っています。なお、蘇我という地名はこのあたりにはフンダンにあったのも事実です。
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さて大友皇子を征伐した一行は二十四日ササナミに集合して、二十六日に、大友皇子の頭を持って不破宮へ戻って天武天皇にこの首をささげております。彼らが集合したササナミの地名はヒダの国府から二三里のところに実在しておりますが、細江と書くのがそれに当るそうです。
さて、ここに問題なのは、ヒダには国造《くにのみやつこ》、つまり朝廷の任命したヒダ長官のすむ都が今の高山市内の七日町というのに当っていて、ここにはこれを無言で証明する如くに国分寺趾や惣社がある。ところが、もう一ツ昔からヒダの首府と伝えられている現在の国府があって、ここは昔は広瀬と云っていた。この広瀬というのは、恐らくヒダの古代における最も重大な名の一ツのようです。その附近は大きな古墳がタクサンあります。そして広瀬神社というのがある。また今の荒城の神というのが、当時の広瀬の神かも知れないということでもあります。
ところがヒダの地を平定した天皇は、天武四年に、風の神を龍田の立野に祭らせ、大忌神を広瀬の河曲《カワク》に祭らしめたということが書紀に現れております。その祭った場所は大和国三郷村立野の龍田神社と大和国河合村の
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