り、こまったことには船山がない。水無神社の歴史という本には、八所和歌集の記事からだと乗鞍にも当るし現在の位山にも当ると云っている。
 しかし乗鞍の麓には船山はないが船津がある。今は神岡町であるが、昔から有名な船つき場で、今の町名の神岡が古い名かどうか知らぬが、船津が同時に神岡なら、これを船山と解して悪くもなかろう。神通川をさかのぼって船津で船をのりすてて乗鞍へ登った。天ツ船は神話では山上へ到着するが、神通川をさかのぼって舟行の限界点として適当な船津でのりすてた。そう俗に、現実的に解して悪くはないであろう。船津の隣り字は石神だの阿曾布だのとこの氏族にふさわしい古い地名が多い。このあたりは昔はスワと云い、今に古スワの地名がある由。舟をすてた最初の聚落がスワで、乗鞍を越えた信濃側にもスワがある。
 しかし、乗鞍に位山の古い呼び名があって現に山神崇拝のあとの巨石が多く見られ乗鞍権現もあるけれども、信濃側の信仰からみると、この氏族がヒダから山越えした最初はむしろ穂高で、穂高を梓川まで下ッた現在の穂高神社の地がこの氏族の信濃開拓の交通要所、重大な分岐点をなしているらしい。つまりこの氏族の発展根拠地点でもある。松本の平野へ、またスワへ、伊那へ。遺跡から判断して三ツの古代人の発展方向のその重大な分岐点、聖なる根拠点たる穂高神社。又その山上たる穂高の峯は信濃側の信仰からは一ノ山と見られるのが自然かも知れん。そして船津へついた一行が登るとすれば、乗鞍よりも穂高の方を選ぶのが自然かも知れないのである。その二ツの中間のアワ峠が一番古くひらけた道のようだ。
 この氏族は船津上陸当初は谷沿い道よりもむしろ尾根づたいに歩いていたと見られる。穂高中心に北には立山へ、南には乗鞍、御岳へと彼らは尾根づたいに往復して立山と御岳から低地へ降り、もしくは中間の峠を降りた。御岳を尾根づたいに南下すると三国山と云って、ヒダ、シナノ、ミノ、三国の境、そのヒダ側が竹原村で、そこが尾根から低地へ降りる南限の地点と想像される。今もスワ神社の神事にスワ湖の氷上渡御というのがありますが、これは穂高から御岳への尾根通行を湖水に当てはめたもので、あの氷のワレやモリ上りは一方には中間の乗鞍のクラにのるという意味と、氷がわれるということで通過の雪どけを待つ意味の通交の祈願のような気がします。
 竹原村大字宮地の川合平に日本に珍しい
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