由がなくなったか、帝都の方で群蠅の帰還助力を必要とする何事かが起ったのかも知れない。
 それから四十年ほどの間に斉明、天智、弘文、天武、持統とすぎて次の文武天皇の大宝二年(西暦七〇二年)に美濃と木曾の間に新しく道をつくりました。それから十二年後にも美濃と信濃の境の道が険阻だからと之を廃して木曾路を新設しております。十二年前の木曾路が完成したのか、それを廃して更に新道をつくったのか知れませんが、以上から結論せられる重大なことは、
「古い時代の方が御岳、乗鞍という三千余メートルの高山にはさまれた難険の峠を通っており、次第に海岸側へ、木曾川ぞいの道がひらけている。古代交通の舟行の概念とは逆である」
 という一事です。つまり当時の古い交通路は現代の日本人にも困難なアルプス越えであった。ところが、御岳、乗鞍の尾根つづきの穂高、槍、立山、がそれと同じ以前からさかんに里人に崇敬登山せられ、乗鞍を中心にして南方御岳との間に巨坂《オオサカ》の峠があって、北方の穂高との間にはアワ峠が古くから交通されていたようだ。
 ヒダの一の宮を水無《ミナシ》神社という。一の宮だが現社格は近代まで県社ぐらいの低いものだったらしく、祭神が今もハッキリとしない。神武天皇と云い、大国主と云い、その他色々で、水の神サマであるか風の神サマであるか、それもハッキリはしていない。ヒダの伝説によると、
「神武天皇へ位をさずくべき神がこの山の主《ヌシ》で、身体が一ツで顔が二ツ、手足四ツの両面四手という人が位山の主である。彼は雲の波をわけ、天ツ舟にのってこの山に来て神武天皇に位をさずけた。そこで位山とよび、船のついた山を船山という」
 これはヒダの国守であった姉小路基綱のヒダ八所和歌集裏書きの意訳ですが、これがだいたいヒダの伝説の筋です。
 現に水無神社のすぐ近くに位山と船山とあり、山上には巨石群、古墳群があるそうですが、しかし前文の作者は、
「位山は諸木の中でも笏に用いる一位《イチイ》ノ木が多い。麓をまわれば二十余里、宮殿(水無神宮の由)の奥、また府(現高山市)から麓まで七里余」
 とある。位山と船山は高山や水無神社から頂上まででも一里半か二里ぐらい。里数が違う。そこで、位山は乗鞍だというのが郷土史家の定説である。むかしは乗鞍を位山と云った。位山が乗鞍を指すのであると多くの史料に見られる位山の記事にピッタリする。その代
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