と、これを指導するために潜入する神父の活動がつゞいたが、やがて潜入する神父も跡を断ち、表向き信教を奉ずる者もなくなった。もっとも、長崎周辺や天草等に、表面は仏教徒を装うて子々孫々切支丹を奉じた部落はいくつかあり、それらは明治維新となって信教の自由が許されてから公然たる信教を復活したが、その第一番目の復活が、浦上部落の隠れ切支丹であった。
 私がこの前に長崎を訪れたのは今からちょうど十年前であった。季節もちょうど今ごろであったろう。その年の十二月に太平洋戦争が始まったのだが、そのキザシは至るところに見ることができた。長崎港内の造船所のドックにはいりきれずに大きな図体を湾内に露出していたのは「大和」であったらしい。
 私はそのとき「島原の乱」を書きたいと思い、それを調べるためにあの地方を二週間ぐらいブラブラしていたのである。長崎では、毎日図書館に通って、そこにだけしかない郷土史料を筆写していた。「南高来郡一揆の記」だとか、そのほか三四そこで筆写したものを、戦争中にどこへどうしたか見失ってしまったのはバカげたことであるが、切支丹資料の主要なものはそのころたいがい集めておいたし、地図なども揃え
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