支丹の十字に対して、一方は真言の九字の印をきるという。まア、真言といえば山伏の法術も真言の秘法の如くではあるが、山伏は九字は切らんな。真言と云い、九字をきると云うところに、それに相応する原型らしき切支丹とその胸にきる十字があり、金鍔次兵衛先生の武者ぶりなどが際立って私の幻にうつるのだが、どうでしょうか。
 しかし、金鍔次兵衛の煙の如き遁走ぶりがどんなに破天荒なものであったか、ということは、実は彼の味方たる切支丹の記録からは判然しない。パジェスは彼の神出鬼没の活躍を英雄的に記録して、日本人が彼を魔法使いとよんだことを記録している。しかし、実に彼を追いまわした大村藩の記録には、殆ど世界中の誰しも信じがたいバカバカしい追跡の事実が残されているのである。
 もしも徳田球一の隠れ家が分った時に、日本の警察はどれだけの警官をくりだすであろうか。五百人か? 千人か? 三千人か? 五千人か? 一万人か? 戦車か? 飛行機か? 原子バクダンか? まさかね。一連隊の警察予備隊以上をくりだしはしないであろう。ところが次兵衛の隠れ家を包囲するには、すくなくとも六連隊、思うに完全武装した三師団ぐらいのものが一時に出動し、これに海軍も加わっていますよ。以下、大村藩の記録を意訳してみましょう。実に残念なのは、私の手もとに浦上の地図がないことで、地図がないと、この三師団と海軍の包囲網がハッキリ分りにくいのですがね。
 寛永十二年(であろう。他の次兵衛追跡に関する記録の年月日からみて、そう見るのが正しいようだ。西暦一六三五年)八月、次兵衛が浦上に隠れていると密告する者があって、長崎奉行は四辺の諸藩とレンラクして捜査中、大村領戸根村脇崎の塩焼き(俗に釜司という由)が彼を山中にかくまっているという情報がはいった。そこで長崎の両奉行から城主に出動の命令があった。
 大村藩では、家老大村彦右衛門を大将に、家士の全員、諸村の代官所属の全員、小給、足軽、長柄の者は言うまでもなく、領内の土民に至るまで、武士も土民も十六歳から六十歳までの男を全部召集。よろしいですか。十六から六十までの領内の男の子の全員ですよ。そして残したのは、城内の番人と、諸町村の押えの者だけです。かくの如くに一藩の全員が出動しました。相手は金鍔次兵衛たった一人なんですがね。
 むろん、総指揮に当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令によって出動しました。
 そこで四藩二奉行所から出動した恐らく何万人という全員をもって、まず往還の通行を止め、半島の海から海に至る線を人垣でふさいでしまった。海と海の間の陸地といえば、今度原子バクダンの落ちたあたり若干の平地をのぞいて、道の尾の方も稲佐山の方も、山また山ですね。これを人垣でふさいだ。この人垣は一人一歩の間隔です。一人一歩の列で半島を横断する人垣によってふさいで、この列をくずさずに、ジリジリと半島の尖端、海の方へ追いつめて行く。夜になると、全員、一列のままピタリと止まり、止まった場所でカガリ火をたいて夜を明す。夜間に人員交替して、不寝番をたて、夜があけると、またジリジリと一人一歩の列をくずさず前進、夜にピタリと止まって、止まった場所でカガリ火。蛇やキリギリスは逃げられるが、ウサギやタヌキは驚いたろうなア。一人一歩の人垣を破らないと、ウサギもタヌキも海辺まで追いつめられてしまう。海の上は舟軍で封じていたのですね。こうして、実に三十五日という日数を費して、一人一歩の列をくずさずに遂に海岸線まで人垣が移動到達したが、次兵衛の姿はどこにもなかった。彼をかくまった小者の姿もなかった。
 彼に随行していた小者(塩焼きかね)与一郎という者は三十五日の山狩が終った後になって捕えられた。「とりにがしのバテレンの小者を山狩の人数の引き申し候あとに捕えられ候由、大慶に存候」西宗真が大村彦右衛門に手紙を書いてます。とりにがしのバテレンの小者を捕えて大慶至極という、まことにナサケない話ながら、金鍔次兵衛の神通力が当代を風靡した有様、目に見る如くでありましょう。
 次兵衛の活躍は一六三七年までつづきます。パジェスの記事によると、彼は一時は江戸へ逃れ、そのとき将軍の小姓に伝道してその何人かを改宗させた、とあります。どこへ逃げても忙しい先生で、単なる逃げ隠れということは全然やっていないようです。単なるモグラではなくて、夜はミミズク、フクロウ、コノハズクよりも活動的で、白昼もタヌキのようにヒルネしていたワケではなくて、実にもう、かかる神出鬼没の人生こそ何よりも彼の身についたものであるような、たしかに天才的な忍術使いの威風すら感じられるようですね。パジェスによれば「すくなくとも五百余名の切支丹が彼をかくまった容疑で死刑になった」そうであるが、そういう市井の人情に目をくれない
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