シンパも少く、(彼の活躍した時はすでに切支丹の衰亡に近づきつつある時であった)レンラク、レポの組織なども甚だ幼稚であったばかりでなく、後日の彼は長崎を中心とする信徒の最も重要な支配者であり指導者でもあり、逃げ隠れが能ではなくて、最も積極的な街頭進出に、指令に、慰問に、ミサに明け暮れしたのであるが、実に数万人の捜査網をくぐり、九州から江戸の間を股にかけて七年間というもの日本中を騒がしたのである。
彼の生い立ちは日本側には不明であるが、パジェスによれば、ウオマリ(該当する日本の地名不明)の生れ、父はレオ小右衛門、母はクララ・ボキアイ(落合かも知れん)。この両親はともに殉教者だそうだ。彼はその子供でイヨヒョーエ(日本の記録は次兵衛、または次太夫)という。彼は有馬の学林で育てられた。彼は語学に天才があって、彼の話す完全なラテン語にはヨーロッパの神父も感心したという。二十歳のとき宗教的な地位をうるためにフィリッピンに行きたいと思ったが、一六二二年に至ってはじめて同地に行くことができた。一六二三年十一月二十六日、管区長フライ・アロンゾ・デ・メンチェダ神父によって修道服を与えられ、誓願を立てた後、ドン・フライ・ペテロ・デ・アルセによって司祭に補せられた。日本の記録では「切支丹バテレン妖術使いの張本人金鍔次兵衛」であるが、教会の記録では、トマス・デ・サン・アウグスチノ神父という。
一六三〇年(寛永七年)二月二日フィリッピンより船出して、マリベレス島で難船したが、彼は奇蹟的に助かり、首尾よく日本潜入に成功した。これより日本に於ける神出鬼没の大活躍がはじまるのであるが、彼の足跡をうかがうに、道なき山野をわけ岩をよじ水をくぐり、その運動神経たるや怖るべきものがあったろうと思われる節が多い。マリベレス島で難船して奇蹟的に助かったという一節によっても、水泳なども甚だ達者であったように思われますね。
彼の属するアウグスチノ会のグチエレス長老が、その前年に捕えられて入牢《じゅろう》しておったが、まず次兵衛は竹中|采女《うねめ》の別当に雇われることに成功した。竹中采女は長崎奉行であり、切支丹断圧の総元締のようなものだ。次兵衛はまんまとこの別当になり、自由に牢内に出入して、グチエレス長老の指図を仰いで伝道に奔走し、自分の乏しい給料で長老に食物を運んでいた。グチエレスは性格の甚だ温和な人らしく論
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