ような振舞いのなかったことに好感をもったのが理由の一ツであるかも知れない。
 私はこの憲兵の取調べをうけたのをよく記憶しており、それが地図を見ていたせいであることもよく記憶しておりながら、それが手製の地図であったことを忘れていたために、今に至るまで私の書庫には一枚の長崎地図もないことに気づかなかったのである。
 そのときの長崎旅行は島原天草の一揆の史料をあつめ、実地を見て歩くためであったが、空想癖の旺盛な私であるから、全然ムダなことに精を入れるのは、今も昔も変りがない。実に私が切支丹史の人物中で最大の興味をもっていたのは「金鍔次兵衛」という怪人物で、私が十年前の長崎旅行の後にまず第一に書いたのは彼の行蹟についてであった。
 古来から切支丹|伴天連《バテレン》の妖術という。伴天連はパードレ、神父の意。新教の牧師に当る。彼らは布教の始めに当って、客寄せというような意味で手品などもやったようだ。新教では奇蹟を説かないが、旧教では神の奇蹟を認めるから、その方便に手品を用いるようなこともあったらしい。それでバテレンの妖術ということは、はじめから言われていたもののようであり、また、当時の日本の習慣にはない獣肉を食用し葡萄酒をのむから、人間の子供の生き血をのんでる等という噂もあった。そして物語の本には切支丹バテレン妖術使いウルガン伴天連。身の丈一丈二尺などゝ多くの怪人物が現れているけれども、そして、それが実在のバテレンの名に相違ないが、いずれもバテレンが酒顛童子のように人肉を食うというような架空な物語にすぎない。
 正しい史実に「切支丹バテレン妖術使い」という名と行蹟をハッキリと残している人物はたった一人しか居ないのである。この人物を「金鍔次兵衛」という。その珍妙な名は物語の中の架空の人物のようであるが、却々《なかなか》もって、そうではない。外国側の記録にも、大村藩の記録にも破天荒の彼の行蹟がハッキリ記されており、のみならず彼が捕縛されたところには「金鍔谷」という地名が残り、長崎の地図が手もとにないから、正しい町名なのか、昔からの通称にすぎないのかは分らないが、長崎港外の戸町へ行って「金鍔」ときけば直ちに通じる通り、彼の足跡は今も明確にその所在を残しているのである。そこの山腹に現存する横穴の中で、彼は捕えられたのである。
 地下へもぐった共産党の幹部にくらべると、金鍔次兵衛の方が
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