春雨の間の隣室は支那風の部屋で、ここはオイランのセッカン用の部屋の由、昔は牢屋のような格子がはまっていたものらしく名所旧跡的な曰くインネンよりも、怪談怨霊的曰くインネンの方がはるかに多種多様に部屋々々に伝わっていたものらしいようであった。どうしても楼主の命にしたがわず、身をうらずに、セッカンされて悶死したような娘がここには相当多かったものらしいね。これも長崎的なのかも知れないな。
実際、長崎というところは、開港場であって、それに相応した開放的な気風もたしかにあるにはあるのだが、そのアベコベの鎖国的、閉鎖的な気風が少からずありますな。そして、長崎の女は、他の九州の女のように武士道的に、葉隠れ的に、また切支丹的に身を守らずに、かなり自由な自分の感情だけで身を守っているようなオモムキがありますよ。そして彼女のかなり自由に選択された自分の感情というものが、開港場的に開放的に現れずに、むしろ保守的に、閉鎖的に、不自由にと、自ら選ぶようなオモムキになるようですね。
しかし、とにかく、長崎には、非常に独特な都市の感情がありますね。それはたしかに他の都市の感情よりも悪いものではありません。その感情は実に古風で保守的であるが、因習的にそうなのではなくて、かなり自由奔放な魂や感情が、自分一個の立場で、古風なもの、保守的なものを選んで愛しているような、やっぱり開港場的な、古風で保守的ながらコスモポリタンでもあるという各人めいめいの生き生きとした自由な魂もあるのですね。
「長崎にはパンパンはいません」
という。それを改めて思いだすと、古風で、自由で、可憐な長崎が、かなりよく分るではありませんか。パンパンはいないけれども、およそ旅人に窮屈を感じさせる街ではないのです。そして、甚しく古風であっても、決して恋のない街ではないのですよ。あるいは昔から、この港町にだけは、恋があったのかも知れないな。いつまでも、古風で、かなり明るくて、かなり自由奔放で、なつかしい港であるに相違ないね。概ねかたよったところが少く、そのなつかしさをかなり信用して愛するに足るものがあろう。
しかし、この街の胃袋だけは――しかし、痛快でもあるなア。一日三合の配給に神を売らざるを得なかった胃袋というものは、考えれば考えるほど、決して人の心を暗くさせるものではないなア。
要するに、胃袋の欲する量を欠かしてはならないとい
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