存在しとらんですぞ。長崎気質というものは実に古風なもので、開港場にふさわしい進歩的なものは殆ど見られないですよ。
 そこで長崎の人間は古風で温和で気が弱くて実にお蝶さんのように可憐であるかというと、否、否、否。長崎の彼や彼女をあまく見ると、ひどい目にあうよ。実に長崎の彼や彼女というものは、実に、実に、また実に、おどろくべき大食人種だね。お蝶夫人がシッポクやチャンポンを食うところはオペラには出ないかも知れんが、チャンポン食堂の場というようなのがあってごらん。彼女が長崎の女である限りは、お蝶さんが肺病と脚気と弁膜症を併発して瀕死の病床にあっても、それは実に、驚くべき大食らいにきまっておりますよ。
 長崎の街を散歩して、ちょッと手軽にヒルメシを食いたいな、お八ツ代りに何かちょッと腹に詰めておきたいな、というような際に、長崎ならばチャンポン屋というものがあって、そういう時にはこれに限るというようになんとなく市民のお腹《ナカ》が生れながらにそう考えているようだ。
 そこで私もチャンポン屋へはいる。陶器製のカナダライに相違ない平鉢の中へ、高句麗の古墳の模型をつくって少女が運んでくる。古墳の上側にかけてある物をしらべると多量のキャベツやキノコや肉などを原料に支那と日本の中間的なウマニに煮たものである。その下には日本のウドンと支那のウドンのアイノコのようなものが全部を占めていて、カナダライに水をナミナミと満した場合にはカナダライの内部が直接空気にふれる空隙というものはなくなるのであるが、日本のウドンと支那のウドンのアイノコの場合に於てはその空隙がないのみでなく更にカナダライの高さと同じぐらいのものが上へ盛りあげられており、更にその上にキャベツ一個分はないけれども一個の半分以下ではないらしいキャベツとキノコと肉などが積みあげられているのである。
 キャベツとキノコと肉の山がウマニでなくて、また、日本と支那のアイノコのウドンに日本と支那のアイノコの汁がかけてなくて、つまり、単なるキャベツとキノコと肉とアイノコのウドンだけである場合には、私はこれを牛か豚の食糧と判断して、ハテナ、長崎の食堂の女の子にはオレが牛か豚に見えるとは思われないが、しかし彼の女の神経や視覚はかの八月九日の放射能によって――私はいろいろハンモンしたかも知れないね。
 しかしこれはウマニであるしアイノコ的なウドンに相違
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