も、神経衰弱の文明人がたぶんそこで感じる旅と同じような何かを大島でも感じられるような気がするね。その旅は日本の温泉旅行とはまた違うものだ。豊富な食べ物がなければならんというものではない。その土地の限定の中へ旅人を限定する力のあるのが「旅」なんだね。つまり、旅行者というものを、常に一時的に自分のタメトモにするだけの何かが必要なのだね。メリメがコルシカに、ゴーガンがタヒチに見出した旅のような、何かが。まア、ゴーガンはタヒチのタメトモには相違ないが、しかしタヒチのゴーガンから我々が感じるものは、彼がそこで土人の女と結婚したというタメトモ的なことではなくて「旅」ですよ。大島には、とにかくそれがあるね。日本内地には長いこと汽車にのっても、なかなかそういうところはありません。とにかく名題の大ホテルにメニューがなくて、お客の注文をきいてから買だしにでかけて注文とちがった妙な牛乳料理を静々と運んできても、それが一向に苦にならず却ってなんとなく親しめるような「旅」というものを大島に於てやや味うことができるね。そして、村のアンコたちと外輪山で噴火でも見物しておれば、否、ホテルのバルコンでボンヤリ見ていても
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