くハシケに目もくれず見物にでかけて行ったね。そこで乗客をマンサイしたハシケ舟は、とりのこされて、仕方なしに橘丸の御見物がすむまで波の上にブラブラ漂っていましたよ。陸上では見かけられないノンビリした風景でした。陸上のモラルや礼儀に関係なく、しかし、大自然に制約された秩序もユーモアもあるようでしたね。文明の発達によって生れた不自由さもあるな。その任にあらざるものが、いらざる首をつッこんだって邪魔になるだけさ。大海にはヤジウマの交通整理の必要もないや。板子の下は地獄だが、海とか空はノドカなものさ。たとえば、かの戦争という海空の連合軍に対してはタダの人間はもはや見物するより手がないというようなアキラメと天下泰平さ、と人類のサッソウたる退化状態がありましたな。
とにかく私にとっては、まの悪い日であった。全島霧につつまれて、時に五米、時に三百米ぐらいの見晴ししかない。とつぜん大噴火がはじまってもそれを見ることができない運命だから、なさけない。霧の火口に見切りをつけ、御神火茶屋から数百米のところに湯場と称して、自然噴出の蒸気を利用したムシブロがある。これを見物に行きました。岩をくりぬいた牢屋のようなところ。四囲は自然の岩盤で牢屋の格子戸と同じものが足の下に敷いてある。天の岩戸のような入口をしめると、足の下の格子の下から四十八度の蒸気が音もなく人間をつつむ。音もなく。これが気がかりな言葉だね。そこのオヤジらしい三十七八の詩人的人物が、私をシゲシゲと見て、
「坂口さんじゃないか」
とおどろく。どうも、その顔が思いだせない。彼は私の田舎の中学校の同級生で出版屋の番頭をやってる「ザト」という人物のことをきいた。私と彼の共通の友人がザトらしい。すると彼も出版か文学に関係ある人で、ザトを通じて私と一面識があったに相違ないのである。ヨシナリ君という人だった。
下山して土地の文学者に訊くと、
「ああヨシナリ君。あの人は大島生れではありません。奥サンが岡田の人で、タメトモ心を起しましてな」という話であった。内地から来た旅行者がアンコの情にほだされ、天下の大事を忘却して島に居ついてしまうのを「タメトモ心ヲ起ス」という由である。湯場の売店に働いていた彼の奥さんはやや美しく、さすがに甲斐性がありそうなアンコだったね。彼女はノドをつぶしていました。毎晩大島節を唄うせいさ。甲斐性があるのだね。島にはタメトモが多いそうだ。タメトモの暮しよいところらしいが、ヨシナリ君は特に優秀なタメトモらしいや。拙者もはやくタメトモになるべきであったな。常春の島に来て人生の秋を知る。モノノアワレとはこのことさ。
たしかに天下の大事を忘れる島らしい。そのなつかしいオモムキは全島にあふれているね。御神火茶屋に働いてる十六七の娘たちは眼下にせまる熔岩を見下しながら、熔岩がそこまで迫ってきた時は、ちょッと熱かったが面白くてたのしかったなどと言っていたね。全島をあげて山上へ見物にあつまり、かけがえのない自分の島の大噴火に老いも若きもウットリしたらしいな。
本日(五月二十三日)午後一時二十一分、遠雷のようなバクハツ音がきこえる。約三十分にわたって、断続する。私はいきなりペンを投げだして、洋服をきて、旅支度をはじめる。大島のバクハツに相違ない。伊東は川奈の岬が突きだして視界をさえぎっているから、すぐ目と鼻の大島が見えないのだ。朝日新聞の伊東支局へ電話をかけて大島バクハツかどうか問い合せたが、主人が不在で分らない。ぜひなく、古屋旅館へ電話をかけて、きく。古屋の主人が大島の東海汽船へ問い合してくれたが二十分もたつと大島の返事をきかせてくれましたね。こんなにカンタンに大島と通話できるとは知りませんでしたよ。大島ではバクハツらしいものは目下感じられません、という返事だとさ。ガッカリしましたね。こッちはすでに思いこんでいたのだから、キツネにつままれたように半信半疑ですよ。しかし、大島直々の御返事がそうなら、いかに信用したくなくとも仕方がないさ。
どうも寝ざめが悪いのさ。バクハツの実況を実見せずに大島を書くのが、まことに筆がすすまないのさ。どうせ書くからには、火口壁でバクハツにでくわし、熔岩に追っかけられてホウホウのていで逃げるようなあんまり利口な人のやらないことがしてみたいね。そういうことを賭けるのが、職業のタノシミというものですよ。すすまぬ筆をムリに動かしてる最中にバクハツ音をきいたから、即座に一人ぎめに思いこみ、にわかに勇みたち、空襲警報よりも慌てふためいて旅支度をととのえたね。バクハツにあらずと報知がきたときは、魂をぬかれたようなものさ。こういう意気ごみで出かけるときは、船酔いなんかしないものだね。拙者の文学のエネルギーはそのバカらしさで持ってるようなものさ。伊東から大島行の定期船は午前の八時
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