王帝説」は、昔、写本を写真に撮したのも見たことがあったし、写本の一種も見たことはあったが、今は私の手もとには群書類従もない。岩波文庫本が一冊あるだけだ。ほかの本のことは知らないが、岩波本は相慶之という坊さんが写した本だね。二条、六条天皇のころ、平安末期の法隆寺の大法師だそうだね。
この本に、ごく稀に、二字三字ずつ欠字があるのは、なぜでしょうね。虫くいの跡ではないね。虫くいにしては数が少なすぎるし、欠字の形が縦横に不自然でなければならない筈だ。この欠字はいつもタテであるし、前後がハッキリしていて、ある単語や、ある意味をなす一句の全部がチョッキリ欠字になっていることを示しているのである。虫がそんなにチョッキリと食う筈はないね。
つまりこの欠字は人から人へ写本されつつあるうち、誰かが故意に欠字にしたものだ。しかも甚しく曰くありげなところに限って欠字になっているのである。相慶之の写本以外の異本があるなら、見たいな。同じところが欠字になっているかしら。曰くありげとは、天皇の名とか、ミササギの場所とか、そういう事が記載されているらしい所に限って欠字になっているのさ。
まず、先にあげた山背大兄王が殺された記事と、入鹿父子が殺された記事を例にとってみましょう。
飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日。これは書紀と同じだね。飛鳥天皇は皇極天皇で、癸卯は書紀では皇極二年に当っています。さて次に毛人《えみし》大臣の児、入鹿臣□□林太郎が山代大兄及び十五王子らを殺したというのだが、書紀の方には皇極二年に何があったかというと、例の妖しげな前兆や天変地異の数々のほかに、十月六日のところには、蝦夷が病気と称して朝堂へ姿を見せないばかりか、息子の入鹿に紫冠を授けて物部大臣を名のらせたと書いてある。自分の子を勝手に大臣に任じたわけだ。その前年の条には、祖先の廟を葛城の高宮にたて八※[#「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1−14−20]之※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]《やつらのまい》をやり、自分と入鹿のミササギをつくったことが記されている。山背大兄が殺されたのは、書紀では翌三年の出来事になっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡《あまかしのおか》に宮城を構えて自分の住居を上宮門《うえのみかど》、入鹿の住居を谷宮門《はさまのみかど》とよび、子供を王子とよびはじめたことが書いてある。
すると「入鹿臣□□林太郎」という欠字には、どうやら、天皇的な、それに類する語、蝦夷の私製の特別な語があったのかも知れないが、そういう語がはいっていたのではないかね。まだ蝦夷も入鹿も天皇ではなかった。なぜなら、すぐその上に、飛鳥天皇御世葵卯年と明記しているから。
ところが、それから二年目が入鹿と蝦夷の殺された年であるが、それを法王帝説は、
「□□□天皇御世乙巳年六月十日」
と書きだしているね。書紀によれば、これは皇極四年である。皇極四年ならば、法王帝説は、先の条にある如く「飛鳥天皇御世乙巳年」と書く筈だね。ところが、飛鳥天皇は二字だが、□□□天皇は三字だよ。そして、それにつづいて、その六月十一日に、
「近江天皇、殺於林太郎□□、以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之」とある。
近江天皇はまだその時は中大兄王で天皇ではないが、後に天皇たるべき人をはじめから天皇とよんでいる例はこの本ではしょッちゅうのことだ。怪しむに足らん。まだ天皇になる前にも後の天皇を天皇とよぶのがこの本の例であるのを知ると、「入鹿臣□□林太郎」も「林太郎□□」も、どっちも、やっぱり天皇か皇太子、もしくは天皇か皇太子を特に蘇我流にした同じ意味の別の語であったかも知れないね。
皇極二年に山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていたのではないかね。即ち、
「□□□天皇御世乙巳年」は皇極天皇の飛鳥ではなく、甘梼岡だか林太郎だか他の何物だか知らないが、蝦夷天皇か入鹿天皇を示すどれかの三字があったのだ。私はそう解くね。この欠字の特殊な在り方によるのみではなく、日本書紀が蝦夷入鹿を誅するのを記述するに途方もないテンカンやヒステリイの発作を起しているからです。きわめて重大な理由がなくて、このような妖しい記述が在りうるものではなかろう。蝦夷入鹿は自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ。私製の一人ぎめの天皇に、こんな妖しい記述をする筈はないね。その程度のことは、否それよりも重大な肉親の皇位争い、むごたらしい不吉な事件はほかにいくつもあるではないか。
蝦夷入鹿とともに天皇記も国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのではなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的に焼滅せしめたのに相違ない。
そして、書紀全
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