決するだろうと思い、第二候補の仙台青葉山を第一候補にあげて築城を願いでたら、意外にもアッサリと第一候補を許可されたので、志とちがって、仙台を城下にせざるを得なかったという説がある。真偽は当てにならないが、北上平野は政宗が家臣の領地にも与えなかった直轄の穀倉地帯であり、その産物を運ぶために大運河をほって北上川の河口を石巻にうつしたところを見ると、石巻を物産と運輸の要点と見ていたことは頷けるのである。政宗も中央の政治家や政策に接して次第に大人になった人だから、後年に至って大坂江戸に匹敵する東北の中心地が石巻だと思いついたかも知れないが、仙台築城当時(一六〇〇年)はまだ田舎豪傑の域をでず、精一パイ勘考して、仙台青葉山を選んだんじゃないかね。時まさに関ヶ原の年であり、ドサクサまぎれに火事場泥棒しようというコンタンでねりかたまっている政宗であった。実際、関ヶ原のとき、彼は上杉を牽制するため東北を動かなかったが、ドサクサまぎれに一もうけしようとしてそのコンタンを家康に憎まれ、戦功に二十万石もらう筈の約束をフイにしているのである。
こういう田舎豪傑が選んだ城下としては、それ相応の条件がそろっているね。仙台は山と平野の接点だ。眼下に平野を見下して、青葉山は天嶮だが、天嶮すぎらア。前面には広瀬川が城の三方をまわって流れ、後は渓谷をへだてて嶮しい山つづきである。青葉山そのものは河床からまッすぐそびえたつ岩山で、石垣でくみたてる必要がない。テッペンまで登るのに私は大苦労させられましたよ。私の案内者は山登りの愛好者だが、彼らも息を切らしていたほどだから、私はムシブロの中にいるように流汗リンリ、フラフラである。築城まもなく大坂の陣も終って天下に平和到来し、政宗も本丸の所在地が高い山のテッペンすぎるのを新発見してウンザリしたらしいね。築城の第一候補地は石巻の日和山であったなどと云いだしたのは、それから後のことだろう。時世に合せて、気がつきもしたし、前から気がついていたように、言いふらしたくもなったような気がするね。いつも後手後手と気がついた男で、それで生涯冷汗をかいていたのが政宗さ。オレ一代限りでテッペンの本丸をやめて、フモトの低いところへうつせ、と云いのこして死んだそうだ。そこで二代目から本当にフモトへ本丸をうつしたよ。拙者だけが登り道に苦労したわけではなかったのさ。すでに城を造った当人が
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