安吾の新日本地理
道頓堀罷り通る
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山寨《さんさい》
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(例)土地|名題《なだい》
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(例)※[#「王+旬」、第3水準1−87−93]
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(例)ジュウ/\
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檀一雄君の直木賞「石川五右衛門」が連載されてから、「新大阪」という新聞が送られてくるが、本社から直接来るのじゃなくて、東京支社から送られてくる。おまけに伊東の宛先の新番地が大マチガイときているから、あっちこッちで一服してくるらしく、到着順の前後混乱甚しく、連載小説を読むには全く不適当である。
しかし、この新聞はオモロイな。これを大阪のエゲツナサというのであろう。「いきなりグサッ!」という見出しのついた記事をよむと、娘が暗闇を歩いていると怪漢が現れいきなりグサッ! と刺されて重態だという。なるほど「いきなりグサッ!」に相違ない。あるいは、それ以外の何者でもあり得ないほどの真実を喝破しているのかも知れないが、物事は時にあまり真に迫ってはいけないなア。それを日本語で因果物などとも言うよ。大阪のさるお嬢さんが教えてくれた言葉に、エロがかったエゲツナサを特に「エズクロシイ」と云うそうだ。舌がまわらねえや。昨年来「新大阪」を愛読したおかげで、大阪のエゲツナイ話やエズクロシイ話は、大阪へ行かないうちから、相当心得があったのである。
先月、というと、一月のことだが、その月末ごろに、三流どこのあまりハヤラないダンスホールがダンサー各員一そう奮励努力せよ、そこで週間の売上げナンバーワンからテンまでに勲章を授与した。そう云えば、大阪のストリップは始まる前に軍艦マーチをやるよ。我ながらクダラン所は実によく見物して廻ったなア。この勲章がホンモノの勲章で、勲二等から八等ぐらいまで。ナンバーワンが勲二等をもらったそうだね。古物屋に山程売りにでていて、勲二等でも四百円ぐらいだそうだ。一山買ってきて有効適切に用いたのである。貰った女の子は喜んだそうだ。
女の子がズラリと並んで勲章をクビにかけてもらッている写真と記事を「新大阪」で見て二日目の紙面には、ダンスホールの経営者が軽犯罪法で大目玉をくったという記事がでていた。不敏の至りであるが、私はなぜ軽犯罪にひッかかるのだか合点がゆかなかったが、人に教えてもらってワケがわかった。つまりキンシ勲章はなくなったけれども、文官の勲章はまだ日本にあったんだね。なるほど、我々の老大家も文化勲章をもらった方がいるが、そういう新製品はとにかく勲何等というのはなくなったと思っていましたよ。古道具屋に山とつまれてホコリをかぶっているのだから、シルクハットかなんかかぶって宮城へでかけて、この勲章をもらって、女房よろこべ、感激してわが家へ立ち帰るような出来事がもう日本には行われていないと早呑みこみをしていたのは私一人ではなかったろう。
この勲章を拝受して女房よろこべとわが家へ立ちかえる行事が厳存している以上、これをダンスホールの主人がダンサーに授与しては、ちとグアイがわるいな。国家の栄誉の象徴をボートクしたということになるのだそうだが、どうもね、古道具屋にホコリをかぶっているのを起用して有効適切に女の子を奮起せしめたのだから、廃物利用としてはマンザラではないではないか。買って帰って子供に授与する方が教育の本旨にかなうのかな。それとも当人が国家から授与されたツモリで愛玩している方が勲章の本旨にかなっているのかな。古道具屋に売ってるのだもの、すでにオモチャの値打しかないのさ。そうではアリマセンカ。
とにかく大阪はオモロイや。私は大阪でどこかの新聞記者に会うたびに、きいたものだ。勲章授与したダンスホールはどこにあるか、と。すると、彼らはクサッて答える。あれは新大阪の特ダネや、と。各社の社会部記者は部長に怒鳴りつけられたそうだ。こんなオモロイ記事知らんちう新聞記者あるか! アホタレ!
各社のアホタレどもは無念でたまらないのである。部長に怒鳴りつけられて渋々ダンスホールへおもむいたが、後の祭である。彼らは甚しくふてくされて帰って部長に報告する。行ってみたかて何でもあらへん。アテらが知らんかったんやないでエ。新大阪のアホタレがタネに困ってデッチあげたもんらしいわ。他の人が悪かったせいにしてボヤいている。ほんとにデッチあげたのなら、なおオモロイや。商売のためには何でもやろうという大コンタンは、とにかく大阪のものだ。東京の方から遠く望見していただけでは想像のつかん何かが実在しているよ。宝塚山中で共産党の幹部と会見したという記事をデッチあげた朝日の記者にしても、東京にいて考えると記者の心理分析だのそこまで追いつめられた事情などゝ理窟ッぽく推理を働かせる必要にせまられるが、大阪という都会の心臓の中へまきこまれると、あんなこと、なんでもあらへんネ。理窟はあらしまへんワ。大阪モンはみんなあれぐらいのコンタン持っているようであるよ。
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大阪はエゲツなく、エズクロシイが、同時にそれに対して軽率な反動を常備する本能があるのかも知れん。ストリップ・ショウが軍艦マーチではじまるのも、多少はそのへんの作用によるのかも知れんが、自分は放蕩しながら子供に仁義礼智信を説くようなオモムキがあるなア。ここの警察、曾根崎署というのは大きなネオンサインをつけていたね。もっとも節電で消えていたが、ついたら、壮大なもんだろう。
大阪では電車の起点だか終点だかを「ターミナル」と言います。正しい英語の由。もっとも大阪の「ターミナル」は、その起点終点駅周辺のマーケット地帯、新発生の盛り場をさしてターミナルと云うのである。このターミナルは、どこもかしこも汚らしくエズクロシイが、しかし表の電車通りは、これはまた、いかめしいネ。バリケードというものを縦横ムジンにはりめぐらして、人間どもをトコトンまでソクバクし、いささかの自由をも許さぬ取締りが完備しているのである。裏にはトコトンのエズクロシイ人だまりをいだきながら、表通りだけはあくまで規則ズクメによって人間どものヨチヨチ歩きを封じて一列縦隊かなんかで歩かせてやろうというコンタン、大阪の人間は一足外へでると赤ん坊なみ、全然ソノ筋の信用ゼロらしいや。バリケードをきずき、金網をはって人間どもの勝手なフルマイを封じたのは全国の競輪場だけかと思っていたら、大阪ターミナルの表通りが、そうなんだネ。競輪場の取締りは全大阪市の思想であるらしい。しかしこのバリケードはいかにも国家非常時的に物々しいし、美しくないね。人間に対しても失礼ではないかね。相互に良識を信頼し合うという表情は大阪市には見られない。ただ取締りと号令で、街の表情は戦時めき怖るべき市民征服の精神に溢れたっているようだ。
千日前という賑やかな盛り場がある。劇場だのウマイ物屋が並んでいて、浅草と同じようなところである。道幅は五六間。人の賑いでゴッタ返し、乗り物は通行を許されていない。日曜ともなれば、その賑いは、また格別だ。ところが、その日曜に、この遊楽道路に交通整理物々しく、ズラッと警官が中央に立って、右側通行、その厳格なこと、ちょッと左へよるとお巡りさんのケンツクをくう。自動車の通る道なら整理の必要もあるだろう。だいたい右側通行というのは、人間が車の対面を歩くことによって事故を少くすることができるだろうという考えによって編みだされた方法で、すべて交通整理は根が乗物と人間の交錯という困った事情から必然的に発生したものであろう。千日前は、自動車どころか、自転車も通りやしないナ。ここは人間の通行という用のみに便じる道ではなくて、道を歩くこと自体が遊びであり、あッちの店をのぞき、こッちの店へ色目をつかい、ノンビリ行楽するところである。その行楽まで規則でしばりつけ、働き蟻のように、また兵隊のように、整然と歩かせないと気がすまないのである。遊楽の盛り場ぐらいはウロウロと心のおもむくままに歩かせてはどうかね。大阪の人間は勝手に歩かせておくと、東京のメクラのように衝突してケンカして仕様がないのかなア。ちょッとお客様の目に見える表通りだけは兵隊を扱うように人間を規則ズクメにギュウの音も出させないが、裏通りは、また、ひどいや。
私は住之江競輪へも出かけて行った。場内の建造物は全部鉄筋コンクリートに改造せよ。金網をはってバンク内への乱入を防げ。競輪人種は暴動の元兇どもの集りと見て、最も警戒せられ、殆ど人間的には信用せられていないのだが、フシギなるかな、全部鉄筋コンクリの建物に改造しないと再開を許可しない筈の競輪場が、全然木造ばかりだなア。今は取り払われた東京の盛り場の最悪のマーケットよりも汚らしい飲食店が並んでいたり、どっちを見てもバラックばかり、その汚らしいこと。規則通りに出来ているのは金網だけで、要するに競輪人種は信用せられてゴッタ返し、不自由な規則に痛めつけられてグウの音もでない面影はなかったのである。実に競輪人種にくらべて比較できぬほどの不信用をうけ、暴動ケンカの元兇の如くに物々しく規則ずくめに自由をソクバクされているのは、表通りや千日前の紳士淑女であった。
だが、大阪の競輪場は面白い。私の行ったのは日曜日で、数万の人間がギッシリ、レースを見ることができないほどの混雑、満員の盛況であったが、レースが終って車券を買いに行くのは、その五分の一にも足らないぐらいの人数である。それでも一レースに五万枚ぐらいの車券が売れるのだから、総体の人数は驚くべきものだ。つまり賭けの目的以外の行楽精神の発露による遊山客が多いらしい。東京方面の競輪場にもこういう遊山客はいるけれども、その人数に於て段がちがう。大阪人は行楽精神に溢れているのだ。その点に於ては甚しい健全人種というべきであろう。
私はひところ競輪に凝って、各地の資料や雑誌や、選手名鑑などを取り寄せて熟読ガンミしたことがある。東京の競輪雑誌は誤植がひどい。一頁に誤字がいくつあるか見当がつかないくらい多い。一秒の十分の一という微細な数字が資料の基本となるのだから、誤植だらけの競輪雑誌などは意味をなさないのである。東京発行の選手名鑑の選手の実力鑑定はいい加減で、関西や九州四国など東京人の知らない土地の選手については特にいい加減であるが、東京附近の選手でも、手近かな資料だけで大ザッパに間に合せたやッつけ仕事、手をつくした努力の跡はミジンもない。各人の上りタイムの比較などもある者は二百であるのに、ある者は二百五十のタイムであるというように、全然比較になり得ないものを並べてすましているというズボラなやり方、万事形だけですましている。
関西の雑誌や名鑑はこうではない。私の見たのは競輪ダービーという雑誌であるが、誤植などは殆ど見ることができないし、各人の実力の比較なども一応人が納得できるだけの資料と方法をつくしている。全国に支部があって、各地の競輪の着順やタイムのみではなく、レースの実際を各支部から報告させて表面の記録だけでは分らないことを載せている。そして月々の全国のレースの結果は殆ど全部あつめてある。これ以上のぞめない程度の実質の粋をほぼつくしている。レースは水ものだから、こうしても正確は期しがたいが、予想の資料としてはほゞ手のつくしうるところまでの努力をつくした感が多分である。
ここが大阪のよいところだ。実質的で、お体裁のところがない。ターミナルのバリケードや千日前の交通整理はお体裁というべきか軍隊調というべきか形式のみ甚だしいが、さすがに金モウケの一念こった競輪ともなれば、大阪人の実質精神は猛然として厳正をきわめるらしい。損をしても諦めやすい東京人とちがって、大阪人は競輪雑誌や名鑑を基に車券を買って損をした場合にはカンカンに立腹してネジこみもするかも知
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