なんだ。郷土的な、宿命的なものの責任を一人で負って狂おしいまでにあやつられているようなところがあるよ。私のお目にかかったお嬢さん方の多くは、大阪は好き、しかし大阪の男はキライや、という。なぜだろうねえ、大阪の男は立派ですよ。
 大阪にミジメなものがあるとすれば、東京に対する対立感が強すぎることだ。人生は己れの最善をつくせば足るものであるが、東京はこうだ、東京に負けまい、と考えることは二流人の自覚でしかない。東京の人間は大阪に負けないなどゝ考える必要は毛頭ないのである。もっとも、アメリカはこうだ、フランスはこうだ、という二流人はいます。
 京都の学者がそうである。東京を意識しすぎ、対立感をもちすぎる。学問や芸術に国境はないのであるが、郷土的な対立感をもつと彼の仕事は二流のものになってしまう。対立感は同時に劣等感ということだ。そこで彼らが優越を示そうと志すと、東京を否定せずに日本を否定します。東京に対する京都の優越はないからだ。何よりも自分の優越がないのだ。国境を超えて自立している仕事もないし優越もない。したがって優越を示すには日本を否定する以外にないし、なんによって否定するかというと、自
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