の海女も、御木本の真珠もあきらめて松阪へ牛肉を食いに行く。これ又、かねての念願である。松阪牛、和田金の牛肉と、音にきくこと久しいから、道々甚しく胸がときめくのである。交通公社が電話で予約しておいてくれたから、用意の部屋へ通る。
「あなた方は御運がよろしいのですよ。昨日、品評会で一等の牛を殺したのです。この肉は一般のお客様には出しませんし、まだ、どなたにもお売りしておりません」
 と、女中さんに大そう恩にきせられた。女中さんの言、甚だしく主家に忠、主家の肉を讃美して、誇大にすぎるウラミがあるようだ。曰く、和田金の牛は米飯を食い、ビールをのんで育つのだ、と。
 しかし後刻、主人にきくと、時には米飯を食わせ、ビールを一ダースぐらい、のませることもある、という程度であった。胃の悪い時にビールをのませると、消化がよくなるのだそうだ。その他、豆カス、モチ米など食わせることもあるし、黒砂糖湯をのませたり、カイバを黒砂糖湯でたきこむこともあるそうだ。又、焼酎を牛に吹きかけてアンマすると肉がよくなるそうで、時々二升ぐらい吹きかけるが、牛飼いが、半分飲み飲み吹きかけるから実績は一升ぐらい吹きかけたことにしかならない由。こういう秘術をつくして、松阪牛独特の美しいカノコシボリの牛肉が仕上るのだそうだ。どうも本居宣長の故里であり、牛肉まで神話の如くに神秘的だ。
 松阪牛というのは、松阪で生れた牛ではないのである。生れは兵庫県キノサキ、つまり神戸牛の仔牛。これを和歌山で二三歳まで育て、最後に松阪へつれてきて三月から半年かけて育成、最後の仕上げをする。松阪が最後の育成に適しているのは、薬草などが自生している土地柄にもよるが、肥育の第一番の秘訣は愛撫、愛情であるという。たまにサイダー十本にナマ卵をぶちこみ泡の立つ奴を牛にのませたりすることも秘訣だけれども、実際は愛情、主人の情が牛に通じることによって、牛がスクスク肥育するというのであるが、このへんは伊勢神話の現代篇としてお聞きとり願う。松阪くんだりへ来て、奇妙な教祖に会ったものだ。この教祖は来客があって昼酒をしたたかきこしめしグデングデンに酔ってロレツがよく廻らないのである。
「私は六十をだいぶ過ぎていますが、まだこの通り。毎日松阪牛肉を食べるからで」
 教祖は私をおびやかす。この時だけは、ちょッと驚いた。あんまり教祖的でありすぎるからゴセンタクをそっくり信用する勇気がくずれるのだ。彼はうち見たところ、どうしても五十前後六十をだいぶ過ぎているというのは本当かな。蘇民将来子孫の土地は面妖である。
 和田金の牛肉はたしかにうまい。けれども、そう神秘的にうまいわけではない。ロースのカノコシボリの光沢が美しいのにくらべれば、牛肉の味自体は光沢だけのものはない。特別頭ぬけてうまいわけではないのだ。一般の牛に比べれば開きはあるが、神戸牛にくらべれば、そう開きのあるものではない。当然そうあるべきことである。教祖のゴセンタクがどうあろうとも、牛肉自体は料理の素材ではあるが、料理そのものではない。食べ物は料理に至って職人の腕の相違というものも現れ、大きな開きもついてくるかも知れないが、素材自体の開きなど、一級品同志になれば知れたものであろう。目くじら立てて、あげつろう種類のものではなかろうではないか。しかし、教祖のゴセンタクほど神秘的ではないが、うまいことは確かである。伊東市ではロクな牛肉が手に入らぬから、たしかに松阪牛にはタンノウした。それに特別手がけて肥育した牛肉は消化がよいのか、もたれなかった。牛の飲んだビールやサイダーが私の胃袋を愛撫してくれるのかも知れない。まことに伊勢は神国である。
 和田金でひさぐ牛、一ヶ月三十五頭ぐらいの由。予約がないと席がないほど千客万来のところへ、店頭で牛肉を買っている人々のごった返す混雑といったらないのである。平和な時世にこういう混雑はめったに見られる光景ではない。それにつけても、松阪という町は殺風景で汚い町だ。全く間に合せに出来ているような町で、三井という日本一の大金持が現れた町は、さすがにかくあるべきか。その松阪の三井邸は戦後人手に渡って旅館となり、めっぽう高いので名をなしているそうである。
 伊勢の町々といえば鳥羽へドライブした程度で、あとは車窓から見ただけであるが、鳥羽だの渡鹿野などという南海のヘンピな漁村がいかにも古来住みなしたという落着いた町の構えであるのに比べて、街道筋の市街はなんとなく間に合せという殺風景な汚らしさがつきまとっているようである。伊勢は海から。実にその感が深い。他の土地に於ては、漁村は小汚いものである。伊東などは漁場のうちでは相当に富裕な方に思われるのだが、漁師町の殺風景な汚なさは他と変りがない。伊勢に於ては、その反対で、街道筋の殺風景なのに比べて、はるか南海
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