実にサッソウたる武者ぶりであるが、これぐらい竜頭蛇尾、威厳を失うこと甚しい神様というものは他に類がないようだ。せッせと忠義をつくしながら、不忠であり敵であった者が主人の親類に祭りあげられるにひきかえて自分はピエロにされるという、こういう定めの人間はいつの時代にもいるのである。
伊勢は天孫族の祖神を祀る霊地であるというよりも、征服者と被征服者の暗黙のカットウを生々しくはらみ、一脈今日の世界に通じる悲劇発祥の地、人間の悲しい定めの一ツを現実に結実した史地と見ては不可であろうか。
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私は伊勢へ旅立つに当り、大神宮や猿田彦のほかに、三ツの見学を心がけていた。一ツは志摩の海女。一ツは御木本の真珠。一ツは松阪の牛肉。
伊豆の海で年々テングサとりをやっているのは、今では主として志摩の海女だ。伊豆育ちの海女はいないのである。以前は朝鮮済州島の海女が多かったそうだ。この島の海女は日本海の荒波にもまれて育っているから、寒気になれ、沖縄の潜水夫が日本近海で随一の海士であるのと並んで最も優秀な海女であるという。志摩の海女はそれに次ぐものだそうだ。
志摩は、日本の建国当初から海草やナマコなどの海産物を夥しく朝廷へ貢物しているのであるから、海女の歴史はその頃からの古いものであるらしい。だいたい海産物の中でもナマコを食うなどとは甚しく凡庸ならざる所業で、よほど海の物を食いあげた上でなければ手が出ないように思われるが、志摩人は原始時代から海の物をモリモリ食っていたのであろう。ナマコだのコンニャクを最初に食った人間は相当の英雄豪傑に相違ない。
鮓久で私たちの接待に当った老女中は海女村の出身で、その半生を転々と各地の旅館の女中で暮してきたという大奥の局のような落ちつき払った人物であった。四月から十月までが海女の働くシーズンで、冬には四五人ずつ集団をくみ旅館の女中などに稼ぎにでるのが多いそうだが、彼女らの団結心たるや猛烈で、一人が事を起したあげく、未だ帰るべき時期でもないのに帰郷すると云いだすと、他の全員も必ずそれに殉じて同時に帰郷し、あたかも雁の如くに列を離れる者がないそうである。
「なんであんなに団結心が堅いのやら、わからんですわ」
と、老女中は自分の同族を他人のように批評した。
私は志摩の海女にあこがれているのである。彼女らの生活にふれてみたいのだ。なぜなら
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