突然の失礼をお許し下さい。読書をさまたげて残念です。しかしボクはアナタを愛していました。そしてボクは突然こうするほかに方法を知らないような男ですから、悪く思わないで下さい」
「痛いわ。よして」
と水木由子は松夫の言葉には全くツリアイのとれないことを云った。そして片手で松夫の手くびを握り、扉にはさんだ手を無理に抜きとるような真剣な作業に没頭しはじめたのである。松夫はかなりしばらく彼女の手を押えていた。彼女が予想外のことをやりだしたから、処置に窮したのである。押えているうちに、なんとかならないかと思った。しかし彼女の作業が長い山の芋をムリにも引きぬくような無法な荒々しさになり、とうてい詩情のまじる余地がないと見てとって手を離した。
彼女は本を拾って、一足退いて立ち上った。本と一しょにロイド眼鏡も外れて地上に落ちたのだが、もともと近視ではなかったから眼鏡がなくても天下の大勢に変化はないらしく、眼鏡まで拾っている算段はつかなかった様子であった。
「見かけによらないわね。なんて強引なんでしょう」
水木由子は本を小脇に抱えて、男に押えつけられた手を自分で握りしめながら云った。松夫には云うべき言葉もなかったので、地上の眼鏡を拾いとり、彼女の眉の根のちょうど小ジワのよる場所へかけてやった。なぜなら彼女は後退するばかりで、それを受けとるために手を差しださなかったからである。素直に眼鏡をかけさせてから、彼女は云った。
「図々しいわ。図ぶとい人ね。あんなことをしてニヤニヤ笑っているのね」
こう怒られても仕方がなかった。苦笑ともテレカクシともワケの分らぬ笑いが顔にからんで放れないのだ。彼は笑いを咎められたので、笑いを隠すために図太く出て見せなければならなかった。
「ボクたちは青春をたのしもうよ。キミの年齢で本の虫になるなんて、バカらしいよ」
冷静な声だった。彼は自分が意外にもフテブテしいのを、このときはじめて見たのである。彼はもう成行にまかせるばかりであった。そして、彼女を見つめて、言葉をつづけた。
「キミはこのへんで本と眼鏡に袂別《べいべつ》すべきじゃないか。キミの一生にとって、それはどうせ一時期のものにすぎないのじゃないか」
「そんなこと、どうして云えるのよ」
「待ちたまえ。キミ、コンパクト、持ってるね。貸してみたまえ」
彼はコンパクトを受けとると、鏡を彼女の顔にかざし、たったいま彼女にかけてやったばかりの眼鏡を再び取りはずした。
「これがキミの可愛いそして本当の素顔だよ。ね。眼鏡は余計ものなんだ。もう、この眼鏡はかけない方がいいと思うんだ」
「眼鏡だってアクセサリーの一ツだわ」
「キミには有害無益のアクセサリーだよ」
「趣味の問題よ」
「そう。しかし、キミの悪趣味だ」
「本当に、そう思う?」
「むろん。しかし、眼鏡はキミの自由にまかせるが」と眼鏡とコンパクトを彼女に返して、「人の意見も一応耳に入れておきたまえ。ところで青春をたのしみましょうという提案に対する御返事は?」
「アナタのような悪人、はじめてよ」
「人生を割りきってるだけのことなんだ」
「割りきれる? 人生が?」
「割りきるべきだよ。キミにも割りきることをすすめるね。で、キミの御返事は?」
「強引すぎるわ。私、混乱してるの。あしたここで御返事するわ。いまの時刻に」
水木由子は本や眼鏡やコンパクトを両手に持ったまま、身をひるがえして駈け去ったのである。
松夫は一時に春が訪れたような解放感に目マイがした。自分の所業があまりにも「偉大」であったことを身にしみて感じた。偉大な態度。偉大な言葉。
「オレは人生を割りきっているだけだ」とは、なんて壮大な言葉だろう。彼の今までの人生におよそ無縁な、そして、その瞬間まで思いもつかなかった言葉だ。オレの人生が割りきれたら、と今までどんなに切歯扼腕したか知れやしない。一瞬間に、突然別世界へ走りこんでいたのだ。その晩、彼は綾子とのアイビキの時に、かなりよそよそしい態度を示した。綾子は次第に不キゲンになった。
「もう私が好きじゃないんでしょ。そうでしょう」綾子は強引でワガママだった。受身なのは松夫なのだ。彼女に高飛車にきめつけられると、松夫はヘドモドしてしまう。グッと踏みこたえて偉大な威厳を見せることは、彼女に対してはもう不可能なのである。彼が彼女に威厳を見せる手段と云えば、彼の方から別れようと云いだすぐらいのものだが、それが云えるぐらいなら苦労はしない。ジッと睨んでいる綾子から目をそらして、松夫は細い声で答えた。
「卒業試験も近づいたし、就職試験の結果はまずいし、とても毎日がつらいんだ」
「アナタなんか、二三年落第した方がいいわよ。学校を卒業してみたって、おぼつかないわよ」
事務員の綾子は松夫よりもお金持であった。松夫の方がおごられる率が多
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