のよ。親分のオメカケ」綾子はいつも彼をハラハラさせた。彼の手の中からいつでもずり落ちそうな感じだ。彼女が会社のボスのオメカケにならないのはなぜだろうか。会社のボスが堅造なのか、彼女に腕がないのかと松夫は嫉妬した。
 むろん綾子は口ほどではなかった。彼女は健全な良妻になりたがっているのである。ただ、松夫の良妻になりたいかどうかが問題なのだ。彼女の話ぶりでは、松夫の人格は認められていないようであった。
「アナタは二三年落第した方がいいのよ。学生にはアルバイトってこともあるし、人目も寛大だけど、卒業するとそうはいかないわよ」
「どうせ卒業できないよ」
「そう思うからダメなのよ。こう考えるのよ。永遠の大学生。ステキじゃない」
「永遠の三下と同じ意味だね」
「よく知ってるわね。悪い方、悪い方へ智恵がまわりすぎるのね。人生は表現の問題だわ。明るく生きよ。詩に生きよ」
「永遠の大学生が詩なんだね」
「詩的表現。永遠の三下が現実かも知れないけど、気の持ちようでどうにでもなるもんよ」
「ボクは、しかし、学校を卒業して、就職できて、キミと結婚したいんだ。それが偽らぬボクの気持だけど……」
「はやまるのは身の破滅よ」
「はやまるわけじゃないよ。すでに学校を卒業して就職する時期に来てるんだもの」
「だって、落第するでしょう」
「しないかも知れないよ」
「就職できないでしょう」
「だから、あせっているのさ」
「ムダだわね。私はアナタが学生だから恋したのかも知れないわよ」
「それはキミの本心かい」
「本心て、なにさ」
「ボクを永遠の大学生にしたいのかなア」
「そうよ。それが好きなのよ。でもね。来年もいまの気持とは限らないでしょ。だから、本心って言葉は無理みたいね。いまの心。いまだけよ」
 落第すれば、まだ当分は脈があるらしい様子でもあった。松夫はもう二度と誰とも恋ができないような予感がして仕方がなかった。最近に至って特にそうだ。早い話が、彼はもはや誰の手を握る勇気も起るまい。誰に話しかけることもできない。目を上げる勇気すらもない。恋し得た最後の女、そして結局一生に一人の女が綾子のような気がする。完全だの純粋などという愛や恋のことではなく、あらゆる打算のあげくが、この女一人、である。最後の一文という乞食の愛情である。赤貧のドン底だ。無一物。ギリギリのたった一ツ。それにしては綾子は美人だ。映画館で拾った女のようではなかった。それだけに胸が痛む。今にして思えば、映画館で拾われたのは松夫の方であった。拾われるのも、これが最後であろう。どうしても綾子を放せない気持が強まるばかりであったが、その気持を強く押しつける勇気は衰える一方だ。自分の中にいかなる実力の存在も信じることができなくなってしまったからである。たった一日の革命以来、急速度に没落してしまったのである。

          ★

 試験のとき、松夫はしばしば水木由子と顔を合わせなければならなかった。水木由子は平然としていたが、松夫はいつも急いで目をそらして心の中では宙をふむほどオドオドしなければならなかった。むろん水木由子はロイド眼鏡をかけていたが、その眼鏡が鋼鉄の兵器のようにすさまじい力で彼を圧倒した。彼はそれに怯えた。そして、その眼鏡から聯想しなければならないのは自分のケダモノの手だ。そのために一そう眼鏡に怯えてしまう。鋼鉄の兵器に狙われた一匹のケダモノのように身も心もすくんでしまうのだ。
 松夫の最後の試験の日、その試験のあとで偶然水木由子にすれちがった。彼女は一人であった。あたりには人がいなかった。彼が落第しても水木由子は卒業するに相違ないから、これが彼女の見おさめであろう。彼女が一人で、またあたりにも人影がないのを見ると、松夫はこの機会にケダモノの手を拭き消したいということをふと思いついた。ケダモノの手の怯えは彼の堪え難いものだった。生きる限りこの手と共にいなければならないという事実ほど絶望的なものはなかったのである。
 松夫は水木由子に追いついて、よびとめた。脱帽すると、彼の頭も額も汗でいっぱいで、それは益々無際限に溢れたって湯気をふいた。赤面してオドオドし、いまにも卒倒しそうな様子である。革命時の颯爽たる武者ぶりにひきかえ、あまりにもサンタンたる有様であるから、水木由子は落ちついて上から下まで彼を観察する余裕を得ることができた。
「ボクのケダモノの手について、お詫びしておきたかったのです。たぶん、お目にかかるのはこれが最後でしょうから、この機会を逃すと、ボクは一生、ケダモノの手に苦しまなければならないのです」
「ケダモノの手?」
「そうです。それがボクの表現です。いえ、ボクの実感なんです。そのために苦しんでいます。その苦しみはいまアナタにお詫びして許していただくことができても消えないかも知
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