い。いかに読書の虫にしても、若い女がそれほど男というものに冷淡のはずはない」
後から来た松夫が音もなく読書している彼女に気附かなかったのにフシギはないが、それでもやがて気がついている。想念のトリコとなったウツロの目にもやがて彼女の存在は映じたのである。
「それとも彼女だけは超越した存在かな? イヤイヤ……」
読書と瞑想と観察の殺気横溢している今日この頃の彼女には、あるいは人間観察も秘奥に達したかと伺われる威厳もあつて、松夫も若干脅威を感じることがあったのである。それにしても、若い女が男から超越することができるであろうか。
「この女心理学者先生の手を握ったら、彼女は握り返すだろうか」
と松夫は考えた。ロイド眼鏡以前のあどけない素顔を思いだして彼女を甘く見る傾向もあって、今日この頃の彼女の威厳に必ずしも全面降伏していたわけではなかった。
彼女は心理学の達人である。してみれば彼女自身の心理に於ても人間として例外ではないだろう。自分という土台があって、はじめて人の心も解ける道理だから。むしろその土台たる彼女自身は普通人の心理一般を最大の振幅に於て蔵しているのかも知れない。
「もしも女一般が握られた手を握り返すものなら、彼女もそうするにちがいない。そして彼女がそうしないとすれば、それは綾子だけが例外だということになりうる」その例外は困ったことだと松夫は思った。しかし、もしもそうときまれば、もはや綾子に用はない。綾子は忘るべきである。そしてこの可愛い女心理学者に乗り変えるべきである。松夫はこう考えたが、それは水木由子を甘く見たせいではなかった。水木由子に対する愛情がにわかにどッと溢れたせいだ。この唐突な愛情がどこからそもそも湧いてきたのか意外であったが、その瞬間に、彼は溢れたつ感情にモミクチャになっていたのであった。
彼女の手を握ってためしてみたいと思った。そこが映画館でないことを思いだすヒマはなかったのである。彼女の見ているのはラヴシーンでなくて心理学の本であるのを考えるヒマもなかった。さすがに白昼の庭園であることだけは知覚していたからあたりに人影ありやなきやと見定めることは忘れなかった。突然彼は何かに押されて歩いていた。彼女の前で、彼女の姓をよんで帽子を脱いで一礼した。そして彼女に目を上げて彼を見るだけのヒマしか与えず、跪いて彼女の手を押え握りしめたのである。
「
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング