つけた、といつてもどこにも犯罪的な要素は殆どないではないか。純愛一途のせゐであり、むしろ可憐ではないか。
やつぱり時代のギセイであつた。あのセンセーショナルなところが軍人時代に反撥され、良俗に反するからといふやうな、よけいな刑期の憂目を見た原因であつたと思ふ。
実際に又、お定さんは時代の人気をあつめたもので、お定さんが出所するとき、警察の人々が特に心配してくれて、特別に変名を許可し、変名の配給書類をつくつてくれた。その変名の配給書類で、お定さんは今日まで、誰にもさとられず(隣の人も知らなかつた)平凡に、つゝましく暮してきたのであつた。
どんな犯罪でも、その犯罪者だけができるといふものはなく、あらゆる人間に、あらゆる犯罪の要素があるのである。小平も樋口も我々の胸底にあるのだ。けれども、我々の理性がそれを抑へてゐるだけのことなのだ。中には、とても、やれないやうな犯罪もある。去年だか、埼玉だか、どこかの田舎で、ママ子を殺して三日にわたつて煮て食つたといふ女があつた。こんなのは普通やれそうもないけれども、然し犯罪としてやれないのではなく、問題は味覚に関することで、蛙のキライな人間が蛙を食ふ気がしないのと同じ意味に於て、やる気がないだけの話なのである。
お定さんの問題などは、実は男女の愛情上の偶然の然らしめる部分が主で、殆ど犯罪の要素はない。愛し合ふ男女は、愛情のさなかで往々二人だけの特別の世界に飛躍して棲むもの。そんな愛情はノルマルではない、いけない、そんなことの言へるべきものではない。さういふ愛情の中で、偶然さうなつた、相手が死んだ、そして二人だけの世界を信じて、一物を斬つて胸にひめるといふ、八百屋お七の狂恋にくらべて、むしろ私にはノルマルに見える。偶然をさしひけば、お定さんには、どこにも変質的な、特別なところはなくて、痛々しく可憐であるばかりである。思つてもみたまへ。それまで人生の裏道ばかり歩かされ、男には騙され通し、玩弄されてばかりゐた悲しいお定さんが、はじめて好きな人にも好かれることができた、二人だけの世界、思ひ余り、思ひきる、むしろそこまで一人の男を思ひつめたお定さんに同情すべきのみではないか。
然し、お定さんが、十年もたつた今になつて、又こんなに騒がれるといふのも、人々がそこに何か一種の救ひを感じてゐるからだと私は思ふ。救ひのない、たゞインサンな犯罪は
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