云うのかね。
小平だって、強姦の現場の近くへ人の近づく声をきくと、慌てて女をしめ殺してしまうような、殺人鬼的とはいえ、とにかく人間らしい怯えはアリアリ分るのだが、この女の神経のふとさは、人間として扱いようがないぐらい、同族の弱さがないようだ。
そうかと云って、小平ほど憎たらしく、イヤらしい気も起らないのは、人間的なところがないせいだろうね。つまり、小平のやったことは、とにかく人間の魂の奥をさがせば覚えのあることだから、憎しみもありうるが、太田嬢は微々たる人間の如きものではないのである。怖るべきメスの怪牛だと思えば、憎むどころか、堂々たる武者ぶりに敬服するね。とても勝てんわ。我らの相手ではない。人間の中でこのお嬢さんと対等につきあえるのは、戦争という怪物だけさ。
とにかく我ら微々たる人間は、微々たる人間同士で交りを結びましょうや。
★
私は一ツごとに蛇足を加えるのは好まないのだが、先月の「フシギな女」について、東京新聞の小原壮助先生があんまり低能な批評を下しているから、補足することにします。
この小原壮助という人は批評家の中でも特別頭の悪い人だとは思いますが、作家の作品に対して軽率きわまる読みちがいをして、読みちがいを論拠に批評するのは壮助先生に限りません。「フシギな女」の場合はそのバカバカしい読みちがいを指摘することができますが、小説などの場合には、それができないのです。小説家はどんなにバカげた読みちがいを論拠に悪評されても、それを反駁したところで水カケ論で、ただ自己弁護だと思われるだけがオチですね。ですから小説家は別に反駁もせずに見送っているわけですが、批評家がいかにバカであるかということは、その機会あるときには云っておく必要があると思います。「フシギな女」は論理的にそれをなしうるチャンスですから、蛇足を加えることにいたします。
小原壮助先生の批評によると、
「安吾探偵は山口や検察当局やジャーナリズムの示唆にひッかかって、太田成子や陰の男にこだわり、山口を疑らずに、山口を殺さなかった犯人をフシギがるという俗眼をもって事件を見ている」
というのです。
先月号をお読みの皆さんはお分りでしょうが、あの文章を最も表面的に受けとれば、たとえば、小学校五六年生ぐらいに読ませれば、字面通りにそう受けとるのは当然だろうと思います。字面はたしかにそうですから。
しかし、多少とも文学にたずさわる人間が表面の字面だけしか読めないということが、考えられるでしょうか。しかも、とにかく、批評を書いて、それがお金になるという人間が文章の字面だけしか読めないというバカげたことが現実にありうるとは思いもよらなかった。
だいたいこの人は文学者どころか常識家としても平凡な市井人としても失格して、ナンセンスにちかい愚人だろうと思います。山口が捕われてからの事情と、そうでない時の事情を混同させているのである。山口が捕われて後に山口を犯人だと云えるのは当り前のことだけれども、彼が誰にも疑られていない時にも彼が犯人だとハッキリ云わなければ疑ったことにならないと彼は考えているのですね。また、そういう断言をしていいものだと考えているらしい。こんなバカな人間がそうザラにいるとは思われないが、よりによって、そういうバカな人が文学の批評家で日本に通用するとは、とんでもないことになったものだ。
私がフシギな女、フシギな女、と云いふらしているのは、ちッとも女そのものをフシギがっているのではないのさ。どこに怪牛の化け者のようなフシギな女が実在しうるものですか。
女は柳ずしで休んでも、信用組合で金をひきだす時間だけを気にしているが、すでに現場が発見されて手が廻っているかも知れないということは全然気にかけていない。
また、洋品屋でお金を払うにも、十円札を六十二枚かぞえるのに十分間もかかり、なるべく長く時間を費して信用組合で金をひきだす時間まで持たせようとしているが、現場が発見されて手が廻るかも知れないことは全然気にかけていない。
だからフシギな女だと私は云うのです。しかし、私の言葉の裏を読めば、全然フシギじゃないじゃないか。どこにそんな怪牛のような、フシギな女がいるものか。要するに、彼女が気にしている九時半という時刻までは、決して現場が発見されないことを彼女は知っているのだ。だから、彼女は信用組合で金をひきだす時間以外は全く心配せず、ただ一途に、それのみ気にかけているだけさ。なぜ彼女はそれまで、現場が発見されないことを知っているか。共犯者は山口だからだ。きわめて簡単明瞭な話じゃないか。
まだ犯人がつかまりもしないのに、犯人は山口と成子だと云えると思っているお前さんが大バカなのさ。文学者は素人タンテイではないのだから、ただ文学者の職分として心理分析によって山口と成子の犯行を確認しうる理由をもったがゆえに、文学的に表明してみただけの話であって、素人タンテイたるの功を誇ることとは意味がちがう。
私は先ず山口の手記に、成子の個性がないこと、アベコベに男の個性がありすぎることを指摘し、成子がしばしばゴミをすてに裏へでたこと、深夜に男が来ていたこと、成子が旦那の売上げを数えるのを見ていたこと等、彼の観察が男女共犯物盗り説の一点にのみ集中していることを指摘した。しかもこれらの目撃者は彼一人であって、他の誰も同じものを見ることができない底のものなのである。その他のことについては、彼の手記にはなんらの個性もないのである。そこで私は結論したのだ。
「しかし男であるかは探す必要がない。太田成子を追えばタクサンだ。彼女を捕えれば、男が誰であったかは自然に分るであろう」
云うまでもなく男は山口だと云う意味だ。そして、その次にフシギな女について詳説したのは、なぜ男が山口であるかということを、補足説明するためのことである。
即ち、前述の如くに、女が信用組合の時間だけ気にかけて、現場の発見を気にかけないのは、男が山口であること。また、四人殺害後、冷静に現場の証拠を消しながら男を目撃した唯一の人物山口を殺さないのは有りうべからざることであり、要するに男と山口は同一人であることを暗示したのである。
しかし、犯人があがらぬうちに、そうハッキリ云えるもんじゃありませんよ。暗示するにしたって、すぐ分るようなハッキリした暗示の仕方ができるものじゃアない。
私は今度の事件は数名の目撃者の観察がシッカリしているから、モンタージュ写真によって遠からず成子嬢がつかまると信じていた。しかし、ただ一ツ不安なのは、山口が女を殺してしまう場合がありうることで、こうなると後日に至って山口がどんなにカサにかかって私の文章にインネンをつけてきても、法律上、物的証拠によって彼の犯行を断定することができないと同様に、私も彼のインネンに抵抗するだけの物的証拠をもたないのである。山口の犯行を暗示するたって、そう明々白々に暗示しうるものではない。彼にインネンをつけられてもゴマカせるような伏線をつくっておかなければならないのです。
幸いに私の想像通りに太田成子を追うことによって、自然に男もつかまった。別に私の誇るべきところでもなんでもない。当り前の話ですよ。
だいたい、実際の殺人事件の犯人を当てるなどということは、決して文学者のやるべきことではない。むろん、人間には趣味というものがあるから、犯人はあれだ、いや、これだと世間話に興じるのは当り前だが、文学者がその表芸として犯人を当てるなどということは、笑止千万、バカな話であろう。
第一、私に犯人が、当るような事件は万に一ツぐらいのもので、今回がつまり万に一ツの場合であったのである。
だいたい普通の犯罪は流しの犯罪で、犯人は日本人八千何百万人の中の一人というバクゼンたるものである。探偵小説のように、登場人物二三十人の中に必ず犯人がいるという重宝なものではないし、おまけに、殺人の現場だって当局にだけしか分っておらず、新聞社すら、臆測によっているにすぎない程度である。そういうバクゼンたる材料をモトにして、素人タンテイが犯人を当てるなどということはありうべからざることに類する。
今回は珍しく犯人が犯人でない顔をして手記などを書いたから、私は気がつくことができたのであるが、しかし、別に私だけのことではなかろう。
だいたい、専門家というものは、みんなそれぞれ大したものと心得てマチガイはないものだ。タンテイはタンテイ。素人タンテイとちがって本物のタンテイは素人のはかりがたい経験があるものである。恐らく刑事の多くは山口を疑っていたに相違ない。しかし冷静に兇行後の後始末を完了した山口に恐らく物的証拠はないだろうから、あの場合、女の行方を追求するのが当然であろう。女さえ捕えれば、自然に男を知ることができるからである。衆議院で山口を追求しなかった警察庁を詰問しているのは筋ちがいで、この場合、全力をあげて太田成子を追求するのが当然の本筋だったのである。モチはモチ屋。本職にまかしておけばたいがいマチガイないものである。だいたい、素人タンテイ式に、疑わしい奴を片ッぱしからショッぴくようなやり方は、最も好ましくない。どんなに長時間要してもかまわないから、礼儀正しく、つまり理づめに犯人をあげてもらいたいものである。
★
ウソ発見器というものは、たぶん利用価値は殆どゼロであろう。脈搏だか心臓だか知らないが、何か電流で通じて鼓動かなんかの変化によってウソを見破ろうというものらしいな。聯想の反応実験などとまア似たようなものだ。その人間の個性を究めていないと、とんだ狂いを生じるし、その実験から証拠をハッキリつかみだすことは、まず不可能であろう。
瞬間的な反応というものは、一見人間は本能を偽れないように見えるから確実らしく思われるが、実は犯罪者という老練冷静な実行家にとって、とッさの本能を偽るぐらいは易々たるものかも知れない。
むしろ考える時間を与えて、手記でも書かせた方が、理ヅメにごまかす手段を考えるからシッポをだす率が多く、だし方がハッキリしてしまうだろう。しかし、山口のように、事件を発見した当人が犯人であったという場合ならとにかく、他の容疑者の場合は、自分は事件に関係せぬ、しかじかのアリバイがあると云えばそれまでのこと。事件と交るところのない手記を書かせたって、糸口はつかめない。たとえば平沢氏の手記の如くに、富士山や如来様かなんか三十一文字によみこんで心境をのべたてられても、タンテイたるもの手のほどこしようはないね。
山口の犯人と確定した今となっては、山口の手記はいろいろ考うべき材料を提供しているようだ。
今となってはバカバカしいようだが、山口は女の住所をくらますために、新宿の反対側の浅草と云ってるのだね。今となっては、浅草の反対の新宿だと判断するのはカンタンだが、当時としてはできやしない。渋谷だか品川だか池袋だか上野だか、ほかのとんでもないどこかだか、とても見当はつけられない。
しかし、この手記中の浅草の語は山口の生前、聯想試験の材料にはなったであろう。しかし、この場合にも、この種のテストには個性差というものがあって一定の公式で判定ができない。のみならず解明さるべき問題はその個性差の中に含まれているのであるから、断定的[#「断定的」に傍点]な答えは絶対に出てこないと見てさしつかえない。彼が浅草と云っているのは新宿をごまかすためだということは、心理試験によって知りうる如くでありながら、実はまず絶望的に不可能だろうと思う。探偵小説などでそれが可能なのは、試験がうまく出来すぎているばかりでなく「断定が可能」であるからだが、実際問題としては、彼が他の理由で犯人と定まるまでは、決して断定はできない。試験者の心理の方に断定しがたい弱点が存しているからである。
大学の心理教室の実験の場合とも違うのです。なんしろ一人の人間が殺人犯であるか否か、ということを、日本人八千万の耳目の前で決するのだから、責任がちがう。実験者の方にかかっているその
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