使って、洪水時の岩石の流れ方を調べる実験も行われている筈です。全部見るには、十日かかります」
十日といえば一ヶ月の三分の一だね。あとで三四日ねこむのも予定しなければならない。しかし、中谷先生という大権威に随伴、御説明をねがえるという又とない幸運を逃すような巷談師ではない。たちまち大勇猛心全身にみなぎり、七月の旅行を堅くお約束したのであった。
先生は日本中にダムをつくって廻る計画をたてておられる。只見川の次には紀州。それから屋久島というように。私も昔から、どういう因果か、山で遊んでいると、ダムを思いだす習癖があった。湯河原の奥に広河原という温泉場がある。宿屋は三軒しかない。二本の谷川がここで合流して湯河原の方へ下っている。ここのカマタという旅館で私は時々仕事をするが、箱根の山の一端が広河原、湯河原をかこんで海のところで終りになるが、そこんところをチョイと百メートルぐらいの高さでさえぎると、相当な人造湖ができるね。赤ペン青ペンなんか湖水の底に消えてなくなったってかまわないさ。奥湯河原は雨の多いところだね。私は雨を睨みながら、目の下を流れる川を山の出口でチョイとふさぐことを考える。山というものは、痩せ地を営々と人が汗するよりも湖水にした方が清潔だね。資源をつくる所以でもあり、人間を尊重する所以でもある。単に習性的に父祖伝来の痩せ地を耕すことはないね。
しかし、中谷先生が屋久島にダムをつくるというから、おどろいたね。私は屋久島へ行ったことはないけれども、千七百年代の初頭、例の新井白石が政治をやっていたころ、イタリヤのパレルモの人、ジョヴァンニ・バッチスタ・シドチという宣教師が死を覚悟で密航してきたことがある。白石の「西洋紀聞」につまびらかな話です。シドチが日本の地を、はじめて踏んだのが、屋久島の尾の間というところです。今の地図でみると、温泉のでるらしいシルシがついてますね。当時の記録にはそんなことは記載がない。そこから一里ぐらい山中へはいって松下というところで里人に発見されてつかまっています。私はシドチのことを調べるために、屋久島については、書物や地図について多少の知識があった。
この島の中央には九州一の高山、宮の浦岳という二千|米《メートル》ちかい山がそびえ、それを中心にしたほぼ円形の島で平地というものが殆どないのですね。なるほど、この島の雨量は日本一です。その物すごい雨量のおかげで全山神代杉の巨木が密林をなしているそうだ。しかしスリバチを伏せたような島にダムを造るとは、これいかに。そんなうまい方法がありますかね。
私がビックリ仰天して、こう質問すると、中谷先生の返事はアッサリしたもんだったね。
「カンタンですよ。山にハチマキさせるんです。何段にも。斜面の雨をそっくり集めて下へ落す。上のハチマキから下のハチマキへ順に落して行くのですよ。普通のダムにくらべて、むしろ金がかかりません。ハチマキといっても山をそっくり囲む必要はないでしょう。山のヒダのところにだけ、ハチマキさせればよろしいのですから」
おどろいたな、この時は。しかし、甚しくガッカリもした。わが身の拙さを嘆いたのである。
科学もある点まで推理だ、と云ったのは、こういうことさ。これは相対性原理というような独創とは違うね。まさしくタンテイの領域ですよ。もしくは密室殺人の手口を発案するのと似たようなタンテイ眼の所産だね。
しかし、タンテイに比べて、話が雄大だね。私もふとイタズラにダムの設計など考えた覚えはあるが、屋久島にそッくりハチマキさせるという手は全く思い及ばなかった。
つらつら思うに、こういう手口こそは、むしろ専門家の盲点で、素人タンテイが一番気付きそうなことなのである。科学は素人にはとッつきにくいが、素人にも手がでるのは、まず、この程度のことさ。ところが、それがてんで思い至らなかったのだから、わが身の拙さを甚しく嘆いたのである。
しかし、屋久島にハチマキさせて、あの莫大な雨量をそっくり受けとめるとは考えたもんだね。確実に可能であるし、たしかに莫大な費用を要するとも思われない。ダムというものは垂直のカベで水を遮るものだと考えてハチマキに思い至らなかったところに素人の悲しい盲点があったんだね。
このことは私に大きな教訓を与えてくれましたよ。考え方が、何かに捉らわれていないか。あることを考えるたびに、必ずこう疑ってみる必要があるね。今までも、常に一応疑ることを忘れないツモリであったが、自信がくずれたのさ。もっと突きつめて疑ることが必要だ。
今になって山口の手記を読むと、彼の人柄がかなり分るね。下駄を買ってこようと思って四畳半の襖をあけると、常ちゃんとよぶ声がした、ハッとした足元に血まみれの紀子ちゃんが倒れていた、という件りは彼のウソのうちで最大の傑作だ。こ
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