責任の負担が、あらゆる断定を疑う弱点となって現れるのである。いかんともしがたいことだ。
それにしても、毎日新聞が「山口は犯人にあらず」ときめてかかったり、朝日新聞がはじめのうちは「山口は犯人らしい」ときめてかかったことは、内々はよろしいとして、それを紙上に明記するのは、いろんな意味で危険ですね。まず第一にその軽率さを責めらるべきである。
新聞は単に事実を報道すべきものであるか、もしくは一人の彼を犯人と見たり犯人に非ずと見てそれを公表してよろしいものであるかどうか、昔からの問題であるが、とにかくそれによって益するよりも害毒を流すことが多いだけは確かであろう。新聞がそれを行うのは功名心、他紙との勝敗を争うという功名心が主であろうが、その結果は一方が下山総裁自殺説をとれば、一方は他殺説をとる、まア時には御愛嬌でよろしいけれども、その推論の根拠がいかにも薄弱で軽薄きわまるものがある。この軽薄さをさして、あるいはジャーナリズムと云うのかも知れない。風の中の羽のように軽いのは、男でも女でもなくて、ジャーナリストの心かも知れませんね。
あらゆる事件には、その限界があるのである。たとえば下山事件の場合には、動物実験の結果自殺か他殺か明確にしうるか否か、ということが第一の限界である。文明開化も幾久しい現代であるが、科学万能というわけにはいきますまい。動物をレキ殺させてみる。その血痕の飛び方をしらべる。レキ断され方をしらべる。同じ条件で行うことは絶対に不可能な筈であるが、しかも絶対に確実な答えをだしうるか否か。
私はその実験の方法についても、方法の結果、また結論についても知らないのだから何ともいえないが、想像してみて、半信半疑ですね。現代の科学的方法によっては、自殺とも他殺とも断定できない、という結論が、あるいは出てくるのではなかろうか。しかし、確実に、自殺也、他殺也、と断定できるなら、結構この上もないことだ。以上が第一の限界である。しかし、下山事件はまだ第一の限界すらも明にはされていない。
すべてタンテイというものは、こういう限界をハッキリと見究めてかからなければならないものだ。その限界を明確にするに時間がかかるとすれば、問題はカンタンさ。自殺、他殺、両方の線で追求するのだね。どちらとも即断すべきではない。
八宝亭の場合にも、限界はいくつもあった。犯人は男女共犯也、という
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