催せしめるほどの鼻もちならぬ人物であつたかも知れぬ。フロオベエルの後半生は森に隠棲した聖者の如く静かなものであつたかも知れぬ。然し乍らドストエフスキーは彼の文学の中においては決して鼻持ちならぬ破廉恥漢ではなく、その誠実な懊悩と数々の試煉の通過によつて、恰も愛の具現者の如く又生ける一人の聖者の如く高められた思想の中に自らを失ひ救ふことができてゐる。然しフロオベエルは――彼は文学の中において結局単に甚だ好色であつた。
 彼の文学における人間関係の最大の興味は単に甚だ平俗な助平根性に終始してゐる。実人生に於て禁慾し苛酷な試煉を拒絶したフロオベエルは、文学の中に於ては、もみつぶされた青春の色情を一生もてあましてゐたのであらう。彼の文学の問題と興味は全く一に色情の問題のみから出発し彼の思想はそこに始まりそこに終つて結局それだけのやうに思へる。私がフロオベエルにあきたらぬ最大の点は彼の思想の低俗さと単調さである。
 私は文学の本質的な価値に於ては全くフロオベエルを愛してゐない。然し近代的な心理解剖や観察法の分りよい正確な教科書、入門書としては、この人の書物に越すものは少いと思へる。この伝統なくして
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