万年筆の外には何一つ所持品がなかつたので、十銭ほどの速達料金をつくるにも何か苦面をしなければならなかつたやうであるが、私は苦しいことはみんな忘れる性分だから細いことは殆ど覚えてゐない。たゞ私は郵便局から戻つてきて、堪えに堪えた苦痛のために、入口の土間に倒れて泣いたことを忘れない。
 私は二階に住んでゐた。便所へ通ふこの階段の上下は悶絶的なものだつた。ねてゐるだけでも常時蝦の如くに身体を曲げ虚空をつかんで脂汗を流してゐる私は、階段の上下に身体の筋を動かすたびに卒倒しさうになつた。私は階段に腹這ひになり、もつとも筋の急激の動きを押へるやうに緩やかに一足づゝずり落ちて行くのであるが、一段毎に急所にひゞく激痛なしには降りられぬ。私は一段毎にうつぷして苦悶のために呻き、休んだ。
 このやうな時に、借金取が入り換り立ち換りやつてきた。けれども、このとき、私は意外な発見をした。階段の上下は苦しかつたが、借金取の訪れは決して憎くゝはなかつたのである。むしろ、なつかしかつた。
 病気になると孤独が最も堪へがたいものである。とりわけ夜はひどい。その夜にもし電燈の光といふものがなければ、人間は暗闇と孤独のた
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