人の男が私の前で突然シャッポをぬいでお辞儀をした。
三宅勇蔵である。この青年はその春大学を卒業し、JO撮影所の脚本部員となつて、京都へつき、さつそく私を訪ねてくれたところであつた。借金取の訪れにも胸をわく/\させて苦しみを忘れた私であつたから、友あり遠方より来る、私の心は有頂天の歓喜に躍りあがつてゐた。私はもう病院で手術を受けるさしせまつた目的まで綺麗さつぱり忘れてゐた。酒を飲まう。大いに飲まう。酔ひつぶれ死ぬまで飲まう。
私達は大いに飲んだ。私は不思議な酔ひ方をした。私の身体は濡れた一本の縄のやうな気がした。酒に湿り、酒につかり、グシャ/\ぬれて、だん/\グシャ/\ぬれてゆく縄のやうであつた。私の身体はもう痛くなかつた、すべて、知覚がなかつた。私はまつたく泥酔した。そしてあの怖るべき二階の一室、苦悶と絶望のみしか在り得なかつた部屋の蒲団の上へなんの怖れも痛みもなくゴロンとひつくりかへつて、なんでい、電燈の灯だなんて、邪魔つけな、馬鹿にするない、とパチンと消して、堂々と睡つてしまつたのだが、実際馬鹿げた話だ、これは微塵も作り話ではないのである。翌朝目がさめたら病気が治つてゐた。本当です。一夜にして熱が落ち、腫物の痛みが消え去つてゐた。
腫れものが自然に破れ、膿が流れでゝゐたのである。尤もその後、約五ヶ月間、この膿がとまらなかつた。然し、痛みはもうなかつた。
その後、宿主の計理士は非常に恐縮して、私のために別の下宿を選んでくれた。この下宿は弁当の仕出屋で、私はその二階に住むことになつたが、この弁当は一食十三銭で、この家では酒が一合十二銭であり、居ながらにして、食ひ、かつ、酔ふことができる。金がなくとも、食ひ、酔ふ、ことができる。のみならず、いくら食ひかつ飲んでも、こゝの一ヶ月の借金はたかゞ知れてゐた。一晩に一円飲むには骨が折れた。まづい酒だから、途中に吐いて、飲めなくなる。万事都合よく出来てゐた。私の貧乏ぐらしの中で、この食堂の二階にくすぶつてゐた期間が最も太平楽な時であつた。私は考へることだけを怖れてゐた。そして、考へる代りに十二銭の酒を飲んだ。私は平穏な一人の馬鹿であつた。そして、この戦争中、私はそのときと同じやうな、一人の平穏な馬鹿だつた。飲む酒がなかつたので、毎日本を読み、空襲と遊んでゐたゞけだつた。十二銭の酒に魂を売つたやうに、空襲に魂をまかせてゐた。何も考へてゐなかつた。
教訓、酔ひ痴《し》れてムダ使ひをし貧乏に悩むこと自体は馬鹿なことではない。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「プロメテ 創刊号」大地書房
1946(昭和21)年11月1日発行
初出:「プロメテ 創刊号」大地書房
1946(昭和21)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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