である。彼は妻君と別居して自炊してをり、女房のゐない方が清々とえゝですわと言つてゐたが、もう五十ぐらゐ、鼻ヒゲなど生やしてゐるくせに何かといふと顔を赤らめるやうな小心な善人で、根気のつゞかない気分屋であつた。だから仕事もその日の気分でつい怠けがちとなり、思ふやうに収入もはいらなくなる。今日はえゝ日和やさかい花見に行つてきた、とか、曇つた日はなんや頭がぼうとしてなどゝその日その日のお天気でたいがい怠けて、散歩にでゝ戻つてきて又出かけてといふ風に一日中落付きがない。そして月末になると必ず姿をくらますのである。結局毎月借金取の言訳をするのは私であるが、人の借金の言訳は全然自責の苦痛がないからたゞの話と同じやうに気楽なもので、お気の毒ですとか済みませんとかペコンと頭を下げてやるぐらゐは何でもないことだから、私はとりわけ迷惑にも思はず、この小心な善良な怠け者を咎めたことは一度もなかつた。
 けれども、病気になつて、弱つた。私が京都へ行つたのは孤独をもとめて行つたので、隠岐和一が東京へ戻つたのちは一人も友達といふものがない。ともかく東京の葛巻義敏へ当てゝ金を送つてくれと速達をだした。私は原稿用紙と万年筆の外には何一つ所持品がなかつたので、十銭ほどの速達料金をつくるにも何か苦面をしなければならなかつたやうであるが、私は苦しいことはみんな忘れる性分だから細いことは殆ど覚えてゐない。たゞ私は郵便局から戻つてきて、堪えに堪えた苦痛のために、入口の土間に倒れて泣いたことを忘れない。
 私は二階に住んでゐた。便所へ通ふこの階段の上下は悶絶的なものだつた。ねてゐるだけでも常時蝦の如くに身体を曲げ虚空をつかんで脂汗を流してゐる私は、階段の上下に身体の筋を動かすたびに卒倒しさうになつた。私は階段に腹這ひになり、もつとも筋の急激の動きを押へるやうに緩やかに一足づゝずり落ちて行くのであるが、一段毎に急所にひゞく激痛なしには降りられぬ。私は一段毎にうつぷして苦悶のために呻き、休んだ。
 このやうな時に、借金取が入り換り立ち換りやつてきた。けれども、このとき、私は意外な発見をした。階段の上下は苦しかつたが、借金取の訪れは決して憎くゝはなかつたのである。むしろ、なつかしかつた。
 病気になると孤独が最も堪へがたいものである。とりわけ夜はひどい。その夜にもし電燈の光といふものがなければ、人間は暗闇と孤独のために悶死するかも知れない。高熱は闇と孤独に特別の恐怖を与へる作用があるに相違ない。私は夜になると幻覚を見つゞけてゐた。私の窓から伏見街道をはさんで正面に火薬庫があるのである。そこには銃剣をつけた兵隊は常にぐる/\歩いてゐた。私はそこへ忍びこむ、兵隊の銃剣に追ひつめられ、白刃が私の眼につきさしたとき悲鳴と共に火薬庫全体が爆発する、私は目がさめてホッとする、水が欲しい、だが何よりも人が恋しい、夜が明けて誰かきてくれ、夜が明けるだけでいゝ、窓の下を誰か人の通る跫音《あしおと》だけでもきこえて欲しい。そしてそのときまだ宵の八時頃にすぎないことが分るときの絶望、私はうと/\するたびに火薬庫の爆発の幻覚に苦しんだ。
 さういふ私であつたから、借金取の訪れが人間の訪れであるといふだけで、恋人の訪れと同じやうに、なつかしかつた。まつたく、待ちこがれた恋人の訪れと変るところはなかつた。訪れのダミ声をきくと、私はいそ/\と、まつたくいそ/\と、苦痛を忘れて階段を降りはじめる、借金取の前に立つた私はまるで唄ふやうなたのしさで金を払ひ得ぬ言訳の言葉をのべる。私の顔には苦痛の翳もなく、親愛の、かすかな、なつかしい微笑のみがあるだけであつた。
 けれども、電燈屋が怒つて、今度こそ電燈をとめてしまふといきまいたときには私は混乱した、電燈の灯は私の夜のいのちであつた。それがなければ死んでしまふ。私は懇願した、三日間、私自身が必ずその金をこしらへる、三日間。そしてともかくそれを承諾した電燈屋が立去つたとき、私は堪えかねた苦痛のためにその場へ倒れて暫くは我を失つてゐた。私は泣き、その涙が板の上に落ちてたまつてゐるのを見た。私は電燈屋を憎いとは思はなかつた。又、三日目には来てくれる、私はそれをなつかしんだ。
 然し、この話の結末ぐらゐ馬鹿げたものはないのである。
 借金の返事などゝいふものは必ず予期の日数よりも長くかゝつてくるものである。ところが葛巻の返事ばかりは私の予期し得る最も虫の良い時間とまつたく同時であつた。電報為替が鳥のやうに飛んできた。私は葛巻の返事がとゞいて、それを金に代へるために郵便局まで歩くことがいつたい出来るのだらうかと不安であつたが、為替がとゞくと、そんな不安は雲散霧消であつた。みる/\全身に元気みちわたり、私は為替を握つて外へでた。と、ものゝ十歩と歩かぬうちに、ヤア、坂口さん、一
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング