のしんでゐるけれども、快楽とか自然人的な生活に就て、特に独自な思想があるといふ者はゐない。
 彼女らは男を男として客を選ぶわけではなく、もつぱら蟇口《がまぐち》に狙ひをつけて客を選ぶ。K子といふ一見令嬢としか思はれない美人は、お金をたくさん持つてゐる男は後光がさして見えるわ、と言つた。お金持は色男に見える由、然し若いうちは金をためても、自然マーケット街のアンチャン連を情人にもつたりして金をまきあげられるやうなことが多く、若い子は稼ぎは多いが、たいした貯金は持つてゐないといふことだつた。
 彼女らが夜の橋の袂にタムロしてゐたりするのも、お客を物色するよりも、約束の人を待つてる方が多いので、我々東京の貧民どもは間違つてもパンパンに呼びかけられるやうな心配はないらしい。彼女らのナジミ客はお金持ばかりで、熱海、箱根、銚子、日光、一週間も大名旅行につれて行かれるやうなことも再々で、家も配給もないけれども、我々よりも遥かに豪奢な生活をしてゐるのである。だから彼女らには我々銀座の通行人も眼中になく、したがつて、我々がパンパンに就て考へる如く、パンパンといふものを惨めとも卑屈に思ふ考へ方など全然ない。たまたま足を洗つて事務員となつた女だけが、こんなショーバイ肩身がせまいから、と云つたが、彼女だけが東京に家があり、家から稼ぎにでゝゐた、だからさういふ卑下した考へも出てくるわけで、他の住所のない家出娘のパンパンたちは卑屈なところや卑下するところはなかつた。彼女らは娼婦といふよりも、自然人で、娼婦的にヒネクレたり、荒んだり、ゆがめられてゐるところは殆どない。
 これに比べると娼婦宿の娼婦は、娼婦といふ別種の人間になつてゐる。公娼がなくなつて吉原といふオイランの型はなくなつても、娼婦の気質は同じこと、自然に娼婦的な特別なものとなる。
 病気になると吉原病院へ送られる。この医療費は、金の有る人は支払ひ、なければ払はなくともよい。すると、娼婦宿の娼婦は必ず支払ふさうだけれども、この街の令嬢方は、完全に誰一人支払つたのがないさうで、親分が、これも冗談に、
「ヤイ、てめえたち、吉原病院で一人として金を払つたためしのないのは、この土地のてめえらばかりださうぢやないか。握つてゐやがるくせに、病気を治してもらつたお金ぐらゐは払つてきやがれ、大恩人ぢやねえか」
「恩にはきるけどね。ほんとに有難いと思つてゐ
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