さげてみると、一丈四方もある旗のようなもので、
 雰囲気とシックと味の店、甘味処、さゝの枝野球団
 堂々とこう書かれている。つゞいて本塁をまもるシンちゃんがパッとジャンパーをぬぎすてると、派手なユニホームが現れて、この背には、職業野球の背番号の代りに「さゝの枝主人」とデコデコに縫いつけられている。一同アッと驚いたが、もう、おそい。シンちゃんはマスクを振って、
「みんなハリキッテ行け。いゝか、それ!」
 一同、雰囲気とシックの店の下男なみに扱われてしまった。試合なかばにさゝの枝主人は見物人にも挨拶して廻り、皆さんなにぶんゴヒイキに、例の開店案内をくばる。おたがいキッスイの商人のことで、ショウバイのカケヒキは身にしみているから、そのことで出しぬかれても我が身の拙なさ、ムキに怒るわけにも行かないのである。
 さゝの枝の店も人にまかせてはおかず、一々のお客の前に挨拶にでて、エヽ、手前が主人でございます、味はいかゞ、甘味はいかゞ、と伺いをたてゝ御機嫌をとりむすぶ。
「エッヘッヘ。ワタクシ一身にあつまる魅力による当店の繁昌ですな」
「バカ言え。花柳地へ行ってきいてみろ。ニヤニヤとヤニ下りの、薄気味わるい野郎だと、もっぱら姐さんが言ってらア」
「そこがかねての狙いです。万事、当節は心理学というものだよ。逆へ逆へと押して出るから、こっちへひかれる寸法なんだ」
 ところがある日のことである。
 事務員らしい三人づれの娘がきた。オシルコを二杯ずつ食べて、額をあつめてヒソヒソと相談している。相談がこじれ、同じところをくりかえして、却々《なかなか》まとまらぬ様子である。それをジッとうかゞっていると、心理学の要領で、ピカリと閃くものがあるから、いそいそと進みでゝ、
「えゝ、わかりました、わかりました。三杯目の御相談でございましょう。お代はおついでの折でよろしゅうございます。今後とも、よろしく、手前がさゝの枝主人でございます」
 と三杯目の甘いところを届ける。娘たちは喜んで、不足分を借金して帰ったが、それから一週間ほど後に、そのうちの一人だけがやってきて、
「マスターに話があるんですけど、どこか別室できいていたゞけませんでしょうか」
「ハア、ハア、では、どうぞ」
 と二階の一室へ案内する。娘は一向に憶した風もなく、
「私、このお店で働きたいのですけど、使って戴けませんでしょうか」
「それは又、どういうわけでしょうか」
「今は会社に働いていますが、会社の仕事は私の性に合わないのです。こんな仕事が私の性に最もかなっていることを痛感しているのです。このお店の感じが、特に好感がもてたし、それに、趣味の点で、このお店と私とに一致するものがあるんです。古い日本をエキゾチシズムの中で新しく生かして行く点です。それはヤリガイのある、いえ、是非とも、やりとげなければならぬことなんです。とても共鳴するものがありますから、会社のことも捨て、女優のことも捨て、このお店に働いてみたいと思ったのです」
「では、あなたは、女優さんですか」
「いゝえ、然し、女優の試験を受けたんです。映画女優とは限りません。私、声楽家、むしろ、オペラね、是非やりたいと考えたこともあるんですけど、マダム・バタフライ、あれを近代日本女性の性格で表現してみたいと思ったんです」
「で、オペラの方も、試験を受けたんですか」
「いえ、試験は無意味なんです。審査員は無能、旧式ですわね。新時代のうごき、新しいアトモスフェア、知性的新人ですわね、そういった理解はゼロに等しいと思ったんです。でも、然し、陳腐ね。理解せられざる芸術家の嘆き、それは過去のものね。ですから、私、それにこだわらないのです」
「すると、声楽は自信がおありですね。いえ、つまり、流行歌なんかじゃなく、あのソプラノですか、アヽアヽアヽブルブルウ、ふるえてキキキーッと高いの」
「無論」
「ハア、そうですか。それは、然し、惜しいですね。ワタシなどはこれだけの人間ですから、これだけですが、せっかく天分ある御方は、やっぱり、天分を生かした方が」
 と、彼の頭ににわかに一つの企らみが浮かびあがった。
「この店に働いていたゞければ、それはワタシの光栄なんですが、然しです、御覧のように当店の性質と致しまして、お客様の九分九厘まで御婦人相手のものですから、給仕人も同性の方よりは男の方がよかろうと、三人の大学生を使っているわけなんです。で、当店では、むしろ御婦人の使用人を遠ざける必要があるわけで、残念ですが、やむを得ない次第です。然しですね。ワタシに一つ心当りがあるのです。ワタシの親友の千鳥波という以前相撲だった男が、この町内で、同じ名のトンカツ屋、つまりトンカツで酒をのむ店をやってるのですが、この男が、目下、美人女給をもとめているのです」
「私、ドリンクの店はキライです」
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