「然し、あの金切声は真剣そのもの、必死の気魄じゃないか。あれが狂言とは、それは嘘だろう」
「無論、狂言じゃないわ。真剣でもあり、必死でもあったわよ」
「じゃア、できもしない唄をうたって、声楽家になれるつもりでいるのか」
「私は自分の力について考えてみない主義であるのよ。あらゆるチャンスに、おめず、おくせず、試みてみるのよ。全てを人の判断にまかせて、試みによってひらかれた自然の道を歩きつゝ進む主義であるのよ」
「ウムム」千鳥波は、また、うなった。
「それは、その主義であるのか」
 然し、ふと気がかりになって、言った。
「なんでも試してみる主義なんだな。パンパンなんかも、試したのかい」
 しばらくの鋭い沈黙ののち、「無礼」小さな、然し、氷の如くきびしく怒りに澄んだ呟きがもれた。それは、めざましく鋭く高い怒りに燃えていたゝめに、無礼を許している意味でもあった。
 女が立ちどまった。
「そこが私のウチよ。どうも、ありがとう」
「そうかい。じゃア、おやすみ。あしたも手伝いに来てくれるね」
 女は黙って、うなずいた。そして、千鳥波の大きな手を握ったが、
「あのネ、あなたの店、ラジオがないから、私、すきなのよ」
「なぜ」
「私もラジオがきらいなのよ。あんなものをきくと、声楽家だの女優になりたくなるでしょう。これ、無意味なことであるわ。私、さびしくなるのよ」
 千鳥波をジッと見上げて、そしてにわかに振向いて我が家へ駈けこんで行った。
「ウムム、畜生!」
 千鳥波は、みちたりて、うなった。彼はついに、わが生涯の恋が、こゝにはじまりつゝあることを悟った。
 それはそれが果してチャーミングでありしことを傲然とシン公にうそぶく幸福を考えて酔った。然し、思えば、シン公のあの文章も、わが胸の思いに思い当るところがあるような気がした。



底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説と読物 第三巻第七号」桜菊書院
   1948(昭和23)年7月1日発行
初出:「小説と読物 第三巻第七号」桜菊書院
   1948(昭和23)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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