んてえ気のきいたものじゃアないんで。アッシはこのところ胃袋をチョイと子供にさゝれてもダメなんでさ。然し、見事に、やりやがった。今度こそカンベンならねえ。背骨を折りたたんでソップにしてやる。シン公の野郎からなんと指図をうけてきやがったか、白状しろ」
「えゝ、えゝ、言います。毎晩九時にくる三人づれは、作曲家と映画会社の支配人とプロジューサーで唄の上手なニューフェースを探しているから、唄ってきかせて、とりたてゝいたゞきなさいと指図をうけたわよ。それを信じたことは、それは私の無智だけど、それ故に、それを暴力に訴える、それによってのみしか位置の優位を知り得ない、それはそれによって敗戦をまねいた劣等人種の偏見であるわよ」
「なるほど、わかりました。わかってみれば、罪のないことじゃないか。これは面白い。シャレた趣向でもある。シンちゃんとやらもフザケた御方だ。これを肴にたのしく一夕飲みなさい、というシンちゃんの粋な志であろうさ。そうと分ったら、改めてたのしく飲みましょう」
「それ故に、それを暴力に訴える、それは私の無智だけど、それによって、それは、それ故に、それを、アハハ、シン公のバカ文章に似ていやがら、ウマが合う筈だよ」
はりつめた気がゆるんだせいか、ツウさんが、また、六ツ七ツ、つゞけさまに大物をもらした。首尾一貫した終戦の合図、笑い納めて、飲み直す。
ソプラノ嬢も三人の旦那方の愛想のよいトリナシに機嫌を直して、仏頂ヅラの合間に、今までにない含み笑いなどを浮かべる。けれども訓戒を忘れず、ツウさんのおもらしのたびに、それとなく幽かに皿のふれる音をたてる。ツウさんよりも、自分の方がはじらっている様子である。
旦那方が引あげる。店のすんだのが十一時半をすぎた時間である。
「物騒だから、送ってやるよ。ウチへは黙って出てきたんだろう。ウチの人が心配しているぜ」
店に鍵をかけ、肩をならべて夜道を歩く。千鳥波は女がいじらしく思われて、それが夜道に、キレイに澄んで深かまるのである。
「なア、お前は本当に声楽家になりたいのかえ。よっぽど声楽がうまいのか」
すると女が言下に答えた。
「ウソなのよ。私、小学校も女学校も、声楽なんか、カモばっかりよ。本格のソプラノなんか、一度も唄ってみやしない。流行歌だって満足に唄えないのよ」
「ウムム」
千鳥波は、うなった。この女には色々のことで唸らされる
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング