「いえ、ごもっともです。然し、これにはワケがあるんですよ。千鳥波はまだ独身なんですが」
「失礼ね。私が結婚したいとでも考えてるのかしら。おかしいわ。全然、無理解ね。軽蔑するわね」
「左《さ》にあらず、左にあらず。はやまってはイケません。一言たゞ独身であるという事実をお伝えしたにすぎません。話の要点はそんなところにはないのですよ。このトンカツ屋は相撲時代からのヒイキがついておりますから、常連のツブがそろっていて、このへんの飲み屋では、最高級の人種が集っているのですよ。この店へ、毎晩ほとんど九時ごろに必ず現れる三人づれの客があるのです。四十から四十四五の、オーさん、ヤアさん、ツウさんと呼びあっている人品のよい紳士で、一人が商事社の社長、一人が問屋の主人、一人が工場主と表向きは称していますが、実は一人が映画会社の支配人、一人が有名な作曲家、一人がプロジューサーなんですよ」
効果はテキメン、娘の顔がひきしまった。
「この三人は映画音楽演芸界の最高幹部級のパリパリなんですよ。ニューフェース募集と云っても、こんな時あつまるのは大概は落第品で、彼らは常に街頭に隠れた新人を探しているものです。特に唄のうたえるニューフェース、これこそ彼らの熱烈にもとめてやまぬ珍品ですよ。飲食店のたゞの給仕女になるなんて、天分ある御方が、それは全然つまらないことですよ。いかゞですか。ひとつ、何くわぬ顔、この店の給仕女に身をやつして、チャンスを狙っては」
「そうね。それもちょッとしたスキャンダルね。意味なきにしもあらずね。やってみても悪くないと考えるわね」
「えゝ、そう、そう。先方の御三方がよろこびますよ。世に稀なるもの、即ち天才です。実はです。以前にも一人、その狙いで千鳥波の給仕女に身をやつした婦人がありましたです。この人は天分がなかった。当人も自信がないんですよ。それで、なんです。色仕掛で仕事を運ぼうと企んだわけですが、これこそすでに陳腐です。あの御身分の方々ともなると、色仕掛でスタアを狙うヤツ、これぐらいどこにもこゝにもあるという鼻についたシロモノはないんですよ。食傷して、ウンザリしきっているのです。ですから、真実天分ある者は、率直に天分をヒレキすれば足るのです。むしろ御機嫌などとらない方がよろしいです。ですから、御三方が現れたら、サービスなどほったらかして、何くわぬ顔、唄をうたいなさい。例の
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